このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
富処西馬
本名は富処弘門。通称豊治郎。初号樗道。別号惺庵。高崎嘉多町の志倉家の養子となる。児玉の春秋庵
久米逸淵
の高弟。
西馬
一号蕉林又俵□子 東都新橋惣十郎町
惺庵
暮過や眼にわするれは鴫の声 西馬
『海内俳家人名録』
文化5年(1808年)、高崎田町に生まれる。
天保4年(1833年)、西馬と号す。
天保9年(1838年)、
逸淵
に文台を譲られ、惺庵と号す。
門人西馬の文台披露に
梅老て柳にゆずる垣根かな 逸淵
天保12年(1841年)の暮、榎戸村の玉芝亭を訪ねる。
吹上の
水辺公園
に西馬の句碑がある。
いふ事もせまるばかりぞ年の暮
天保13年(1842年)3月、
清水寺
に芭蕉の句碑を建立。記念句集
『花の雲』
。
観音の甍みやりつはなの雲
天保15年(1844年)、奥州行脚に旅立つ。
奥州行脚の首途に望んで前途三千里の思ひ今更に覚て
笠の蝿さすかに憎うなかりけり
勿来
古関
若葉にも鳴や勿来の呼子鳥
弘化3年(1846年)、江戸新橋宗十郎町に惺庵を構え、惺庵西馬と称した。
嘉永3年(1850年)、
『鳳朗發句集』
(惺庵西馬編)刊。百濟堂如息序。
嘉永4年(1851年)3月15日、大坂の鼎左及び江戸の一具は「
芭蕉翁奧の細道松島の文
」の碑を建立。
松島に明ころの□はなれけり
嘉永5年(1852年)、
『おらが春』
刊。惺庵西馬跋。
嘉永6年(1853年)1月、早風・芳春・如泉は
芭蕉の句碑
を建立。惺庵西馬書。
[旅人]とわか名呼れん初時雨
嘉永6年(1853年)、
『海内俳家人名録』
(花屋庵鼎左・五梅庵舎用編。惺庵西馬校合)護持院梧青序。
安政2年(1855年)、西馬が行司役で「発句大会番付表」を作る。
安政5年(1858年)、逸淵は円筒形の
鋳造句碑
を建立。記念集『すみれ塚集』。
山路來て何やらゆかしすみれ草
祖翁発句塚供養
山路来て何やらゆかし菫草
翁
てふのやとりのさたかなる月
逸淵
ぬるミ引つくミ手洗の水かへて
西馬
問へも受るも声をひそむる
弘湖
安政5年(1858年)8月15日、没。51歳。
前橋市の
宝禅寺
に西馬の句碑がある。
実をむすぶおもひやけふのかれ尾花
成田市の
児明神
に西馬の句碑がある。
五月雨ぬ樹はなかりけり児の原
門下に春秋庵
三森幹雄
がいる。
新町宿北口の俳人久保一静は西馬の門下。
安政2年(1855年)6月、一静は
弁財天
に芭蕉の句碑を建立。
むすふより早齒にひゝく泉かな
西馬の句
福引にしてとらせけり京ミやげ
『蝉塚集』
散るよりも切てまハらや芥子の花
『鄙さへつり』
鳥もまた寝に来ぬ木より后の月
『潮のはな』
隅田漫興
夜のはるのさかりになりぬ朧月
『おらが春』
むしろから立や日くれの花の波
『春水集』
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