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俳 人
三森幹雄
初号静波。別号潜窓、香楠居、桐子園、春秋庵。
文政12年(1829年)12月16日、福島県石川郡石川町に生まれる。
安政元年(1854年)、26歳の時江戸に上り、
富処西馬
に入門して俳諧を学ぶ。
安政5年(1858年)8月15日、西馬病没。
安政6年(1859年)、31歳で京橋丸太新道に庵を結び、潜窓と号す。
窓一つ持ちても月の主かな
明治3年(1870年)5月、千葉県富津市に
「芭蕉」の句碑
を建立。
ほとゝきす啼や黒戸の濱ひさし
明治6年(1873年)5月3日、教導職試補を命ぜられる。
明治7年(1874年)8月、俳諧明倫講社を結成。
明治12年(1879年)6月、神奈川県藤沢市に
芭蕉の句碑
を建立。
明治13年(1880年)5月、埼玉県越生町の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治17年(1884年)5月、千葉県御宿町の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治17年(1884年)10月、旭市の
「桃青靈神」碑
に揮毫。
明治20年(1887年)8月、埼玉県越生町の
弘湖句碑
の篆額に揮毫。
明治20年(1887年)10月、千葉県香取市の
金刀比羅神社
の芭蕉句碑 に揮毫。
桐子園幹雄の句が刻まれている。
其影のさゝぬ国なしかれ尾花
明治25年(1892年)11月、埼玉県越生町の
碩布句碑
の篆額に揮毫。
明治26年(1893年)、
有柳
の後春秋庵六世を称す。
明治26年(1893年)、山梨県甲州市の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治26年(1893年)7月19日、正岡子規は
「はてしらず」の旅
に出る。子規は出発に先立って三森幹雄に会い、沿道の諸家宛てに添書きをもらった。
明治26年(1893年)10月、長野県上田市の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治26年(1893年)10月12日、宮城県亘理町の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治26年(1893年)11月7日、福島県平田村の
芭蕉の句碑
に揮毫。
三森幹雄と関根専吉の句碑
今年はと作もうけあふ餘寒哉
幹雄
勉強をして子に見する春日かな
一鏡
一鏡は関根専吉の俳号。
明治27年(1894年)、群馬県高崎市の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治29年(1896年)10月、山梨県大月市の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治34年(1901年)、静岡県伊豆市の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治34年(1901年)2月15日、千葉県成田市の
月杵句碑
に揮毫。
明治34年(1901年)4月12日、千葉県成田市の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治35年(1902年)4月1日、千葉県印旛村の
宗像神社
に芭蕉句碑を建立。撰者は春秋庵幹雄。
このあたり目に見ゆるものみな涼し
同年、
象潟
で句を詠んでいる。
見れば見るほど象潟の夏寒し
明治42年(1909年)、群馬県玉村町の
芭蕉句碑
に揮毫。
明治43年(1910年)、東京都八王子市の
永泉寺
の芭蕉句碑 に揮毫。
長野県佐久市の
明泉寺
にある芭蕉の句碑にも揮毫している。
明治43年(1910年)10月17日、82歳で没。
大正7年(1918年)4月、
石川町双里
に三木雄の句碑を建立。
今日磐 波耶 山耳 加布佐累 桜閉那
(きょうははや やまにかぶさる さくらかな)
幹雄の句
誰かためにそむる紅葉そこひかくほ
『故郷碑』
亘理神社の芭蕉句碑
高崎市の芭蕉句碑
玉村町の芭蕉句碑
越生町の芭蕉句碑
永泉寺の芭蕉句碑
成田市の芭蕉句碑
御宿町の芭蕉句碑
藤沢市の芭蕉句碑
伊豆市の芭蕉句碑
甲州市の芭蕉句碑
大月市の芭蕉句碑
明泉寺の芭蕉句碑
上田大神宮の芭蕉句碑
越生町の弘湖句碑
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