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松波畠山家の歴史
<築城〜落城まで>

 当ページを作成するにあたって、 内浦町 教育委員会へ電話でのお願いながら、多くの資料を提供・送付していただいたことに大きく感謝しています。当方には、他にいい資料に乏しいので、全面的に活用させていただいたことをここに記します。資料としては「松波と畠山家」(松波城址保存会)、「松波城戦記」(コピーの一部のため、作者など未確認)、「石川県大百科事典」(北國新聞社)、「加能郷土辞彙」(日置謙編・北國新聞社)など、です。

(2005年7月12日写真など添付して一部修整メンテ)

トップページへ 歴史/本紀&歴史/外伝(関連リンク)へ 能登畠山氏関係の目次 松波畠山家の歴史
お好きな項目へジャンプ! <松波家の創立
と松波城>
<松波城下町> <以前からの地侍
・松波氏
と松波畠山氏>
<松波歴代城主>
松波家の創立と松波城松波城本丸跡
 能登守護であり能登畠山家3代当主であった 畠山義統 が、能登府中の北門の鎮台として松波(現内浦町松波)の飛鶴台と呼ばれる丘陵地に城を築くように命じ、着工しはじめたのは文明2年(1473)のことである。当時、まだ義統は、京都におり応仁の乱の最中であったから、実際に築城の指揮をとったのは、後に松波城の城主となった義統の三男・常院坪義等こと義智だったのではなかろうか。
 
 文明6年(1474)(七尾城・松波城落城のちょうど百年前)2月、築城工事も竣工したので、義智が父・義統から木郎潟一帯を与えられ、松波城に入ったのが、
松波畠山氏の始まりである。すなわち能登畠山家の庶流である。義智は常陸守を称した。以後、歴代の松波畠山当主は、初代を、畏敬してのことであろうか、常陸守から一階級おとした常陸介を名乗ることになる。所領の知行高(及び石高)は、松波一帯のの約3千8百貫(約1万4千石)である。松波城本丸を別の角度から撮影(白い建物は旧畠山武道館)

 と郷土史には、普通書かれるのだが、上杉謙信によって滅ぼされた松波氏の創立が、畠山義統だという、積極的な所証は、現在のところ見当たらないというのが実際のようだ。では、畠山氏の庶流ではないのかというと、何とも断言できないが、地元能登出身の私としては、心情的に上記の説を支持したい。私が思うに、畠山義智が能登松波地区にいた有力武士松波氏の名跡を、何かしらの理由で継ぎ、その地盤を強固にし奥能登の畠山勢力の根拠地としたというのが真実ではなかろうか。

  「能登畠山七尾の歴史」 の畠山義綱氏も同様な考えらしく、そのHPで「松波畠山氏が松波氏を相続する以前の松波氏は、能登国珠洲郡の松波・本庄・久能利・山方の有力荘園領主・四氏(公家・日野家に隷属)のなかでも、1200貫の知行を持ち、最も有力とされる家柄である。それゆえ、その出自は鎌倉後期、日野頼宣の子・忠俊が日野家庶流の松波氏の始祖となったとする説がある。」と書いている。

 大手門址(奥の竹柵のあたりに枯山水の庭園がある)当時まだ能登(特に奥能登)は完全に畠山氏に服してはおらず(参考: 長氏 など)、松波氏の家督を三男義智が継ぐ機会を絶好のチャンスと考えたのではなかろうか。もしかしたら、そんな平和裏な家督相続などではなく、毛利氏が吉川氏や小早川氏の家督を自分の子らに強引に継がせたように、そこには戦国時代(応仁の乱の世)の非情があったかもしれない。 これについては後ほど別に記すこととして 話を進めたい。

 本丸入口付近にあった石垣の遺構松波城は、能登畠山家が、下克上というまさに戦国時代の荒波にもまれた天正初年頃に急速に整備・拡大されたものと考えられているが、何分、城の増築の経緯を辿る記録どころか、松波氏側でかかれた史料がほとんど皆無のような状態で、わずかに幾つかの地誌の記録が伝える内容に頼らざるをえないので、ここで述べる城の内容は時代を超越して述べることとする。

 城は、前方に多喜尾川(現松波川)を控え、滝波川東北にめぐり、西方は丘陵が起伏連結する要害の地にあった。地域3万3千坪(約10ヘクタール)、丹頂鶴が常に巣籠っていたという巣籠りの松を始め老松鬱蒼として天を摩し、一名聴鶴山・緑の城または松鶴山・松波城と呼ばれていた。
 
 嘉尚閣址中央を本丸とし、西北の院の山には、御殿旭鶴館、その西北麓に2代義成の寵妾、貴美の局(つぼね)の長坪が並び(現在の坪根は、同じ「つぼね」と発音する局がこのように書き換えられたようだ)、本丸の南端に、義智の隠棲として使われた嘉尚閣があった(今の大殿谷内はこれにちなんだ名のようである)。また東南の小さな丘には鳳祥斎と称する若殿の学問所があった。この書斎は多喜尾川の流れが松籟に琴瑟相和して弾じるような趣を持つことから別名、音川亭とも呼ばれていた。松波城址公園の案内図

 この付近は、一帯に海を眼下に見渡し、近くは赤崎、小紫亀島が見え、また空気の澄んだ日には紺碧の海の遥か向こうに、屹立した立山、米山の連峰を望むことができ、これに白帆を浮べた風景は誠に良く、眺望絶景の地で、景勝台と称されていたところである。城と院の間には雁鯉池という長さ170間、幅20間の中堀があり、この池に臨んで院の山の中央に千利休の愛亭を移築したといわれる茶室一竿亭があった。

 また、庭園は、京風文化の名残りをとどめる室町様式の枯山水を配していたことが現地調査などでわかっており(枯山水の付近からは草庵風の建物や天目茶碗なども発掘されています)、現在少し整備され、当時の面影を偲べるようになっています。このように、松波城は天然の恵みに人工の精緻を加え、数寄をこらした名城であったこのであるが、どうもその背景には、2.3理由がありそうである。(以下、私が心情的に支持する「畠山義智が、もともとこの地区の地侍であった松波氏の名跡を継承したという」説にもとずく考えでの話しだが)
 
 松波城大手門脇にある枯山水の庭園跡能登畠山家は、室町・戦国の大名の中では非常に文化水準の高い大名であったことがわかっている。特に初代松波畠山氏の義智の父・畠山義統は非常なる教養人であったことが記録に残っているから(参考: 「畠山文芸」 )、京文化の影響が色濃く出ていても不思議ではないし、最後の当主となった 松波義親 は、能登畠山家当主 畠山義綱 (義綱も大名権力の回復に明け暮れたので、あまり文化的事蹟の記録は少ないようであるが、教養は高かったようである)の三男であり、松波家の養子として入ったのであり、よって彼も教養度が高かった可能性が大きい。

 また彼の妻は、京都の公家烏丸家の息女と伝えるが、次兄の 義隆 (能登畠山家末期の第11代当主(天正2年から天正4年2月まで))の妻も同じ公家の三条家の出身である。さらに言えば父・畠山義綱の妻も、
近江佐々木源氏の六角義賢の娘ということだ。また、、この珠洲郡にいた武士・松波氏は、その地域一帯の荘園(若山荘)を所領としていた日野家(足利家との何度にも及ぶ姻戚関係から室町幕府の幕政にも参与し、権勢を誇った一族)に隷属していたことがわかっており(参考: 「中世奥能登の荘園・若山荘」 )、京文化の影響が意外と早くから浸透していたとしても不思議ではない。
松波城下町
 松波城址の敷地を分断するようにある廃止されたのと鉄道蛸島線義智は、松波に入部の際、当時の工業の先進地帯・名古屋から勝長をはじめ多数の刀工を招いて鍛冶町におき、刀剣の製作に従事させたのを始め、各種の産業を興し、歴代城主もまた文雅に長じ諸芸に通じていたので、松波は自ら城下町として商手工業が繁盛し、文芸を好む者も多数いた。後の話だが、徳川時代、松波には三十有余の寺子屋が開けれていたことが記録に残っている。そのうち、冨成甚右衛門方は2代義成の文亀年間(1501.2〜1504.2)に、町畠無三郎方は5代義龍の元亀年間(1570.4〜1573.7)に開設して連綿相伝したもので、これによっても当時の施設の一端を窺い知ることができる。

 当時の松波の家数は(天文22年
(1553)調、三代義遠時代)
 重臣:11軒、侍分:168軒、百姓:364軒、町人職人:133軒、兵子:23軒、外局垣内百姓:42軒、合計723軒と旧記に見える。
その中で、鍛治町は、多喜尾川の船便が利用できることと、刀鍛冶、御用商人、御用職人、重臣などが住んでいたため、砂浜に添って、北から東に延びた下長町や、西端の上縄手町、その中間にある袋町、中町には士農工商の民が雑居していた。

 明応8年(1499)(初代義智時代)で、下記の11名が、重臣であったとして記録に残っている。富田九郎兵衛、松波重左衛門、明日輪七郎右衛門、尾館喜兵衛、松波六郎太夫、内田駒太郎、平地勘左衛門、池森長右衛門、滝波孫次郎、松波与三左衛門、松波重兵衛。ここに出てきた松波姓の重臣は、もともといた松波氏の嫡系ではないにしても親族かと思われる。

 かくの如く栄えた松波も、落城後は、商工の徒はことごとく他郷へ転住したため、全く衰微し、わずかに百姓182軒に減じてしまった。中には、前田利家によって新たに整備された小丸山城下の所口に移住した者もいたことであろう。なお、落城後、武士にして百姓になり松波に止まったものは下記の6軒である。
富田九郎右衛門、冨成甚右衛門、松波重左衛門、松波重兵衛、平地勘左衛門、松波与三左衛門

 後に江戸時代に書かれた「能登名蹟史」の中で松波や松波城跡については次のように書かれている。「鵜飼ヨリ一里十六町。上リノ馬次也。家数三百軒余リ、此郷ノ大村ニテ昔ノ城下ナリ。此村は松波常陸介トイウテ、畠山類葉の領地六万石ノ城下ナリシ也。天正ノ頃謙信勢ノ為ニ落城セリ。城山ハ北ノ川向ノ松山也。風景ノ地也。此筋目トイウテ福寿院トイウ百姓アリ。」

以前からの地侍・松波氏と松波畠山氏
 松波城址内にあった雁鯉池天正5年(1577)上杉謙信に能登畠山氏の居城七尾城攻められ9月15日七尾城が落城した。七尾城にあった6代松波義親は、神保周防長親、河野肥前、熊木兵部らは落城の混乱の中、何とか脱出したらしく、松波城で300ほどの兵で立て篭もり再起を期します。残存勢力駆逐にかかった上杉謙信は、主家が滅びても頑強に抵抗する松波畠山に長沢筑前光国を大将とすして約1千の軍勢を派遣した。松波方は籠城の城普請も整わぬうちに攻められ、城主・畠山常陸介義親らの抗戦もむなしく、9月25日、義親は自刃し落城した。城は敵の放火におよって灰燼に帰し全く昔日の面影を失ってしまった(当時の名残を示すものは、現在万福寺にある山門は当時の裏門を移したもので、これだけが唯一の形見である。後は、江戸時代や明治時代に払い下げになり、京風文化の影響をとどめた名園なども、多くは田畑となったしまった)。

 ところで、これらの松波畠山氏の記録は、近世中・後期頃に書かれた『賀能城跡集覧』『越登賀三州史』などの地誌類の伝えるところである。義親は、七尾城主・畠山修理大夫義綱の三男(松波畠山初代の
義智の六世孫にあたるという説もある)で、松波家の養子となったものという。延宝8年(1680)2月の義親画像賛に、すでにそうした所伝の一部が見えており、以後の地誌・系図・由緒書にもほぼ共通した内容が書かれているから、江戸時代前期には、それが後裔の人々に記憶され、地元松波でも伝承されたことが窺われる。しかし、松波畠山氏や松波城に関する当時の史料は、ほとんど何も残されておらず、多くは近世の由緒書類に依拠せざるを得ない状況が真実である。

 本丸から大手門の方へ続く道室町期のある史料によれば、能登珠洲郡の武士としては松波・ 本庄(一時能登守護職を出す) ・久能利・山方の諸氏が知られ、中でも松波氏は1200貫の知行を持ち、最有力とされたいた。そしてそこに見える4氏は、いずれも郡域の大半を占める若山荘の領家であった(荘園領主)であった公家の日野家に従属していたのである。このことは、室町・戦国期の四位・五位の位階昇進記録の下書きである『歴名土代』に松波氏一族が「日野侍」と見える点とも係わり、若山荘木郎郷・松波を本拠とした郡内随一の有力地侍松波氏の庶流で、在京して日野被官となっていたものがあったことが知られる。

 宮内庁書陵部所蔵の『日野家庶流伝』の「松波家」の項に、鎌倉後期の山城国日野法界寺別当頼宣(日野資宣の次男)の子忠俊が、日野家庶流の松波氏の始祖となったとするが、詳細は不明である。可能性としては、この忠俊は、日野家の主要家領・若山荘の有力武士松波氏の一族であったのが、上洛して同家の家礼となった後、法界寺
頼宣の養子となり、その庶流に加えられた、ことが考えられる。

 その他、非常に興味ある記述としては、『寛政重修諸家譜』所収の「松波氏」の項に、戦国期、下克上によって土岐氏を追い出し美濃国の大名となった斎藤道三が、初め松波庄九郎と称し、松波日野氏の出身であったとされることだ。確かに司馬遼太郎の「国盗り物語」を読むと、最初の頃は松波庄九郎として登場してくる。織田家の祖先は、福井の織田庄(おたのしょう)というが、斎藤道三の先祖も北陸、それも能登となると、これは面白いことだと思う。

 能登の松波氏については、文明6年(1477)畠山義智の創立と伝えるが、前にも触れたが、当時の記録などの証拠は今のところ何もない。また、松波町内の松波神社所蔵棟札によれば、文明4年(1472)松波左衛門尉藤原親実が、珠洲郡上村の笠師大明神を造立し、大永4年(1524)にも藤原朝臣斎藤中務之丞孝親が、同郡松波の八幡宮を造立したとある。
実は、これは江戸前期に書かれた由緒書きによって知ることができるのであり、実際の札は摩滅して判読不能となっている。
 
 もしこれを認めれば、室町後期から戦国中期の松波氏一族は、中世北陸の有力武士に多く知られた藤原斎藤氏を称し、「親」を通字としていたことが推測できる。また戦国後期の能登内浦沿岸の給主名を列記した『天文年中旧書写』に、珠洲郡松波の領主として「松波殿」がいたことが記され、天正元年(1573)の能登一宮気多社の大宮司の檀那衆交名に、七尾城主畠山義慶の有力家臣として「松波常陸殿」(6代義親の養父の義龍のことらしい)が見えている。

 ところで、その松波義親だが、松波城最後の城主として知られ、近世の絵像賛や子孫の系図・由緒書などにより、天5年の七尾城陥落後、畠山家臣の神保周防長頼・河野肥後・熊本兵部らとともに奥能登の一向一揆と結んで松波城に楯籠り、上杉謙信方の武将長沢筑前光国の攻撃に抗して、壮絶な最後を遂げたと伝えられる。しかし、当時の史料は乏しく、義親の実像は不鮮明な部分が多い。だが、実名の義親の「義」あは、戦国大名能登畠山氏の通字であり、また「親」が奥能登の豪族松波氏の通じであることから、彼が能登畠山氏一族としてふさわしい名乗りを行っていたことがわかる。

 よって、消極的な見方を採っても、能登畠山家の血が入るのは義智の時でなくとも、少なくとも畠山義綱の三男といわれる義親からは何らかの血縁関係が実際にあったのではなかろうか。
 私は、地元人間であるので、何度も言っているように、従来からこの地域にいた有力地侍・松波氏の家督を畠山義統の三男の義智が、何らかの理由(養子?)で、名跡を継承し、松波畠山氏の始祖となったという説を支持したい。それだけに、松波城の存在意義(奥能登における鎮台)を十分に理解し、主家の能登畠山氏が滅びた後も、その後を受け継ぐのは松波畠山一族しかない、と思い悲壮感漂う抵抗を見せたのであろう。

 ところで、余談だが、松波義親の妻とその子は、松波城落城後、縁故を頼って越後国の称念寺に逃れたが、その後、妻は上洛して 前田利家 の正室芳春院に仕え、子弟は成長の後、 長連龍 に召し出されて長氏の家臣(加賀藩陪臣)となった。嫡男は、連龍から「長」の姓を与えられ、与六左衛門連親と名乗って一族衆に列し、次男は「松波」の名跡を嗣いで四郎兵衛義直と称し、兄同様、連龍に仕えたということである。また、三男左助は、 前田利政 (利家の次男)に致仕したが、程なく病死して名跡は断絶した。(「加能郷土事彙」日置謙編・北國新聞社など参照)

 「うずまきポンプ」の発明者であり、かつて全国石川県人連合会会長として郷土につ尽くされ、七尾城山の麓に城址資料館を建造・寄付された、初代荏原製作所社長の畠山一清氏(昭和46年逝去)は、松波義直の孫、時右衛門義博(四郎兵衛直義の子)の後裔である。義博は、前田綱紀(加賀前田家五代藩主)に召し出されて歩組に列し、その子孫は、代々加賀藩士として前田家に仕えた。
松波歴代城主
 (ここでは、多くの記述は「松波と畠山家」(松波城址保存会)を、利用させてもらっているので、松波畠山家が、畠山義統の三男、畠山義智が松波に入部し、松波畠山家を創立したという説に、便宜上のっとり述べてある。)

◎初代義智(?-文明6(1503)年3月1日没):書道家にして文芸の諸芸に通じていたと旧記に見える。義智入部の際、名古屋の勝長をはじめとした多数の刀工を招いて鍛治町におき、刀剣の製作にあたらせたのをはじめ、各種の産業を興し奨励した。また、神を敬う心が篤く、氏神大足八幡宮の社格を進めて、直と、木郎の2郷の総社とし、武運長久の祈願所とした。また、万福寺を菩提所と定め、駒渡にあったものを城下の長谷川の地(今の万福寺の場所)に移して盛んに堂宇を営む一方、九里薬師の尊像を祀って堂社を建立した。
◎2代義成(?-享禄3(1532)年10月18日没):畠山大隅守義成、後に常陸介義成と称す。城主墳墓の塔頭として福寿寺を建てた。
◎3代義遠(?-永禄4(1561)年2月18日没):従四位の下常陸介義遠は、なき母親の追善供養のため観音寺を建立した。義遠の女(むすめ)、花照姫は、松波神宮寺の開基した。容姿秀麗、読書、芸能を好み、また、先意流薙刀を能くして書道万能の評があった。
◎4代常重(?-元亀元年(1570)3月1日没):従四位常陸介義重は、大足八幡宮へ御洗米田として、大足口一段を寄進するほか、布浦椎ノ木崎に毘沙門堂を建立した。また、永禄9年(1566)の政変で失脚し、能登から追放された能登畠山氏9代当主の畠山義綱は、1568年姻戚関係にあった六角義賢・義治や能登畠山家と同盟関係にあった上杉謙信などの協力を得て、能登を奪回することを企てるが、その時、松波畠山家4代当主が、七尾城(義慶)方に立って参戦したとなっている。
◎5代義龍(?-天正2(1572)9月20日没):従四位常陸介義龍は、5代を継ぐにあたり、松波と改姓し、菩提所万福寺の末寺として、涌金寺、宝光寺の2寺を建立した。
◎6代義親(?-天正5(1577)年9月25日自刃):
畠山義綱の子(三男か?)。従四位常陸介義親と称す。天正初年頃、奥能登の有力国人松波畠山氏を相続した。ただし、この松波畠山氏は、もともとは能登畠山氏3代畠山義統の3男畠山義智が創設したもので、いわば能登畠山氏の庶流だったが、時間の流れとともに国人衆のようになっていた。このため松波氏は、再度、能登畠山氏の一門に列し、その居城松波城は、七尾本城の支城的役割を担うようになった。天正元年(1573)、義親の長兄義慶とその一族家臣が、一宮気多社に奉加した交名に見える「松波常陸」は、彼の養父と思われるが、この段階では、義親の松波氏への入婿は、いまだはかられていなかったらしい。
 天正5年(1577)7月能登畠山氏の本城七尾城が、上杉謙信の第2次遠征により、再度包囲されたという報を受けると、彼は手勢を率いて七尾城の救援に向かった。しかし、一支城の援軍ぐらいでは何ともし難く、9月15日に城内の遊佐続光が裏切り内応すると、七尾城は開城され、あっけなく落城した。多くの温井氏・三宅氏といった多くの武将が降伏する中、義親は密に七尾城を脱出し、松波城へ戻った。そして、3百人(5百人から8百人という説もある)ほどの兵をもって篭城戦を企図し再起を図ったが、9月23日、越後上杉謙信が派兵した武将長沢筑前光国を大将とする千人近く(千2、3百人とい説もある)の部隊にすぐに包囲されてしまう。9月25日畠山家臣の神保周防長頼・河野肥後・熊本兵部などと自らの手勢とともに討って出たが、何分多勢に無勢、大敗し、義親は家臣にたすけられ城に戻り、重傷を負いながらも烏帽子直衣という姿に身をあらため、名香を焚きつつ静かに自害したという。
 義親の妻は、京都の公家烏丸氏の娘とも伝えられる。義親の法名は、福翁常満居士といい、石川県珠洲郡内浦町の万福寺に葬られているが、義親および松波畠山氏の事蹟や性格には、不明な点が多い。
 一応、伝えられるところを記すと、性格は寛仁にして武略があり、また文雅にも秀で、華堂、松涛、松鶴の号を有して、世尊寺流(世尊寺流:藤原行成を祖とする和様書道の一派。小野道風を模し、和様の書道を大成。ただし最も権威があったのは鎌倉時代まで)の書、祥啓派(祥啓:室町中期・文明の頃の画僧。建長寺の書記。水墨画が巧みで、文明10年(1478)から、3年間京都に出て芸阿弥に師事した)の画に巧みであった。また一面、儒学、禅学により常に心身を鍛練に努めた。また菩提寺である万福寺の修復にも心を留め、弘治2年には本堂の再建をはじめ、諸堂を建立して面目を一新し、山号を積宝山と改めるなど、万福寺中興の人物と仰がれる数々の事蹟を残したと伝えられている。


先頭行

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