梅辻規清の墓
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     8 農業用ため池
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梅辻規清の墓への道しるべ

中之郷を通る都215号線から少し外れた粥倉地区。 都道沿いに梅辻規清墓と記された道しるべがあったので訪れてみました。八丈島には流人のお墓がずいぶんとあり、宇喜多秀家は有名ですが、さすがに梅辻規清と聞いても「どなた?」と思ってしまいます。

しかし、わざわざ道しるべが立っているということは、それなりの人物にちがいありません。道しるべを頼りに粥倉地区の粥倉墓地へと入っていきますが、たくさんの墓石が立ち並ぶ中から梅辻規清の墓石を見つけるのが一苦労でした。

ちなみに梅辻規清(うめつじのりきよ)は江戸時代末期の神道思想家で烏伝(うでん)神道の開祖。 寛政10(1798)年に山城上賀茂神社の社家に生まれています。 神学、国学、天文、暦数に精通して陽明学、禅学などの知識も豊富で、諸国を好んで遍歴しましたが、この遍歴における宗教体験と神道信仰、さらに陽明学、禅学の思想を採り入れて確立したのが烏伝神道です。 弘化3 (1846)年に江戸下谷池の端仲町に居を構え、 神道教法の本社として白く庶民を教化します。

しかし、門徒信者の数が数千人に及んだため、幕府はその活発な布教活動を恐れて梅辻規清を投獄、 弘化4 (1847)年に八丈島へ配流されています。 中之郷の山下鎗十郎の家に遇して100冊もの教書を著したといわれており、 島民の子弟の教育に尽力、文久元年(1861)年に64歳で没したそうです。






島民にも慕われた梅辻規清の墓

墓石に自然石を利用した梅辻規清のお墓です。梅辻規清は学者としても贈従5位の最高位で封鼠の法を心得ており、八丈島のみならず三宅島の島民からも感謝されたそうですが、実は勤王の志士であったことも流罪の理由の一つでした。ちなみに彼のお墓は島酒飲み放題で知られる島内某民宿のご主人が墓守をしているとか。

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