越後騒動流人の墓
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粥倉地区にあった越後騒動当事者たちの流人墓

中之郷の粥倉地区の静かな家並みの中で見つけた越後騒動流人の墓です。八丈島へは犯罪を犯した罪人が多く送られましたが、その他には政治的なお家騒動に巻き込まれて流罪となった者もいました。

越後騒動とは江戸中期に越後の高田藩松平家で起こった世継ぎ争いのお家騒動です。当時の藩主松平光長は江戸在府が長く、藩の実権は家老小栗美作と糸魚川城代荻田主馬にありました。そのような状況下で松平光長の嫡子松平綱賢の死後、養嗣子の座を争って家老の小栗美作、荻田主馬の一派と反美作派の氷見大蔵の一派が争ったのがその内容。

要するに重臣同士の反目であり、江戸住まいで家臣の統制を放棄していた藩主のバカ殿様が原因ですが、最終的には5代将軍徳川綱吉の親裁で喧嘩両成敗となって家老の小栗美作は切腹、荻田主馬と氷見大蔵は八丈島に流罪となりました。藩主の松平光長も家臣の監督不行き届きで改易されて所領26万石を没収されています。






八丈島で餓死という最悪な最後を迎えた両人のお墓

お家騒動の主役となった永見長良 (大蔵 / ながみながよし)と荻田本繁 (主馬 / おぎたもとしげ)のお墓。人目につかない淋しい場所にありますが、小さな墓石の前には地元の方が供えているのか、綺麗な花がたむけられていました。

しかし、両人にとって本当に悲惨だったのは八丈島への流罪もそうですが、餓死という最悪な最後を迎えたこと。 元禄12 (1699)年に発生した飢饉によって元禄14(1701)年4月5日に永見長良が、その3日後には荻田本繁が餓死しています。

ちなみに永見長良と荻田本繁のお墓はその後の明和年間 (1764〜1772) の頃には所在不明となっていたそうですが、流人として八丈島に送られてきた青山喜平次という人物が人ごとではないと24年間の捜索の末、ここ粥倉地区にあることを突き止めました。

その後またしてもお墓の行方は分からなくなりましたが、 平成21 (2009) 年に荻田本繁の子孫の方が笹薮の中にある墓石を発見。 平成22 (2010) 年には永見長良と荻田本繁のお墓を示す現在の案内板が設置されています。

お家騒動というとまるでテレビの創作された時代劇や歴史小説のようですが、残された彼らのお墓を眺めると、実際に起きたのだという実感がひしひしと伝わってきます。観光客がやって来ることもなく、もはや誰も気に留めない忘れ去られた流人墓ですが、実にこれだけの歴史の秘話が秘められていると思うと感慨深いものがあります。






平成になって子孫によって立てられた案内板

「越後騒動」お為方

永見大蔵(ながみおおくら)の墓

徳川家康の曾孫 越後高田藩家来
延宝9(1681)年6月22日徳川5代将軍綱吉の親裁で八丈島中之郷粥倉へ流罪
元禄14(1701)年4月5日 病死 71歳
法名 高翁院殿芳誉夢月心大居士
左の笠をかぶった墓石

荻田主馬(おぎたしゅめ)の墓
越後糸魚川城代 越後高田藩家老
延宝9(1681)年6月22日徳川5代将軍綱吉の親裁で八丈島中之郷粥倉へ流罪
元禄14(1701)年4月8日 病死 62歳
法名 萬勝院殿心山常徹大居士
右の笠をかぶった風化した墓石

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