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私の旅日記2010年

鹿野山神野寺〜碑巡り〜
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君津市鹿野山に 鹿野山神野寺 (HP)がある。


推古天皇6年(598年)、聖徳太子開山。

天安元年(857年)、 慈覚大師 再興。

現在は 真言宗智山派 の寺である。

仁王門


文明18年(1486年)、道興准后は神野山に詣でている。

神野山といへる道場にまうでて、

   なく鹿の野にも山にも聞ゆなり妻こひわふる秋の夕暮


本堂


宝永5年(1708年)、再建。同7年、完成。

本尊は薬師如来と軍荼利明王。

秘仏で、寅年に1ヶ月だけ開扉されるそうだ。

寛延4年(1751年)9月、 大島蓼太 は鹿野山に知己の沙門を訪ねている。

奥の院


本尊は飯縄大権現。

秘仏で、10月9日に特別開扉される。

「天狗様の大下駄」があった。

庭園の拝観料は500円。


庭園に入ると、左手に芭蕉の句碑があった。


最中の桃のなかより初さくら

出典は 『泊船集』 (風国編)。

『蕉翁句集』 (土芳編)は「貞享五辰ノとし」とする。

寛政10年(1798年)2月、建立。

碑陰の「青枝・花嬌・風耳・一燈」はいずれも 大島蓼太 の門人。

花嬌 は一茶と交流があったことで知られている。

一燈は 大島蓼太の句碑 を建立している。

道場の前にも芭蕉の句碑があった。


やすやすと出てゝいさよふ月の雲

出典は 『笈日記』 (湖南部)。

元禄4年(1691年)8月16日、 義仲寺 の草庵で詠まれた句。

芭蕉48歳の時である。

天保12年(1841年)、建立。

もうひとつ芭蕉の句碑があった。


   雪中花

初雪や聖小憎の笈の色
   芭蕉

群鴉鐘聲白月淡し山の春
   壽雄

雛僧の衣に梅の白さ哉
   正一

出典は 『俳諧勧進牒』 (路通編)。

『蕉翁句集』 (土芳編)は「元禄三午とし」とする。

昭和7年(1932年)1月、建立。

昭和8年(1933年)5月20日、斎藤茂吉は鹿野山に至る。

鹿野山のをとめの伴はわがために竹筒に小石いれて樂成す

この山に古くつたはりし笹飴もやがては滅びゆかんとぞする


昭和29年(1954年)7月14日から19日まで、神野寺で土筆会。

山寺に蠅叩なし作らばや

而して今ひと眠り明易き

山寺に我老僧かほとゝぎす

      七月十四日 千葉県鹿野山神野寺。土筆会第一回。

明易や花鳥諷詠南無阿弥陀

毒虫を必死になりて打擲

す 山寺に名残蠅叩に名残

すぐ来いといふ子規の夢明易き

蠅叩にはじまり蠅叩に終る

      七月十九日 稽古会第四回。下山。


山寺に蠅叩なし作らばや

はじめて集つた神野寺は霧が深く蠅が多く黴くさかつた。笙堂さんが率先して私等をもてなして下さるし、成田山からも加勢が来て、句会は年々賑やかになつてゆくばかりであつた。

『虚子一日一句』 (星野立子編)

庭園に 高浜虚子の歯塚 があった。


明易や花鳥諷詠南無阿弥陀

昭和33年(1958年)、建立。

歯塚とはあらはづかしの落葉塚

我生の七月二十日歯塚立つ

   歯 塚

楓林に落せし鬼の歯なるべし

      七月二十日 午前、第二回。


歯塚に虚子の歯が9本納められているそうだ。

我生の七月二十日齒塚立つ

神野寺の庭に父の歯塚が建つた。除幕式には紅白の餅を投げ、盛大な句会となつた。父の神野寺行はこれが最後であつた。その後七月二十日を齒塚供養として稽古会も兼ねて私共はお山に集るのである。

『虚子一日一句』 (星野立子編)

庭園の奥に夥しい数の句碑がある。

その中に 高野素十 の句碑があった。


盃を重ねていゝ花夕べ

昭和51年(1976年)10月4日、83歳で死去。神野寺に葬られた。

 昭和54年(1979年)、神野寺のトラが逃げて射殺されるという騒動があった。忌野清志郎が追悼コンサートを開催したそうだ。

 ちなみに、昭和10年(1935年)1月21日、中島知久平邸でライオンが檻から逃げ出すという騒動があった。

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