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今年の旅日記

多賀神社〜碑巡り〜
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隨専寺 から県道21号福岡直方線を行くと、左手に多賀神社の入口がある。

母は多賀神社のそばでバナナの露店を開いていた。無数に駅からなだれて来る者は、坑夫の群である。一山いくらのバナナは割によく売れて行った。アンパンを売りさばいて母のそばへ籠を置くと、私はよく多賀神社へ遊びに行った。そして大勢の女や男達と一緒に、私も馬の銅像に祈願をこめた。いい事がありますように。——多賀さんの祭には、きまって雨が降る。多くの露店商人達は、駅のひさしや、多賀さんの境内を行ったり来たりして雨空を見上げていたものだった。

『放浪記』

坂を上ると、釋超空の歌碑があった。


多賀の官みこしすぎゆくおひかぜにわれはかしこまる神わたりたまふ

《裏面》
   脊山かむぬしによす

つくしの日わかをとりをみにゆかむことをおもへり三とせの後も

 昭和24年(1949年)、超空が弟子の伊集春部と共に直方を訪れた折に詠まれた歌。

昭和28年(1953年)、超空は87歳で没。

昭和49年(1974年)10月、宮司青山大麓歌碑建立。

有井浮風・諸九 句碑


つれもありいまはのそらにほとときす
   浮風

行春や海を見て居る鴉の子
   諸九

浮風の句は 『その行脚』 に収録。辞世の句である。

諸九の句は 『諸九尼句集』 に収録。

平成26年(2014年)、諸九生誕300年に建立されたようである。

 有井浮風は元禄15年(1702年)直方藩士に生まれた。芭蕉の高弟・志太野坡に入門、後、武士を捨てて俳諧師として立ち、野坡の跡を継ぎ、西国を巡遊して蕉風を広めた。

 諸九は正徳4年(1714年)、筑後の田主丸に生まれ、庄屋に嫁したが来遊した浮風に入門、俳諧に生きることを決意して家を捨て、浮風と行をともにし、京都俳壇で活躍した。

 浮風亡き後、諸九は尼となり、俳人・蝶夢とともに蕉風中興に尽力し、江戸中期の代表的な女流俳人として名を成し、天明元年(1781年)、直方の山部でその生涯を閉じた。

下間信夫撰

馬の銅像


林芙美子 文学の原点直方

多賀神社と馬の銅像

 多賀神社は直方城下町の鎮守で、歴代藩主の信仰が篤かった。もとは妙見宮として現在地の北の山上にあったが、藩主長清の居館建設のため、元禄4年(1691年)、現在地に移った。このとき社殿は整備され、神名も多賀神社の古名にあらためた。一の鳥居は長清寄進したもので、銘は貝原信篤(益軒)による。拝殿の両脇には長清の子でのちに福岡藩主になった継高が寄進した石灯篭がある。

 くだって大正4年(1915年)、林芙美子の一家が直方の木賃宿で暮らしたとき、母親は多賀神社ちかくでバナナの露天商をしていた。その間、芙美子は多賀神社に遊びに行き、境内の馬の銅像に「いい事がありますように」と願いをかけた。『放浪記』に書いている。よく私は多賀神社へ遊びに行った。そして大勢の女や男達と一緒に、私も馬の銅像に祈願をこめた。いい事がありますように。

多賀神社


多賀神社御由緒

伊邪那岐大神
御祭神
伊邪那美大神

 壽命の神多賀大神は、天照大神の御両親にて、御社は古く日の若宮と稱す。

 奈良朝の養老3年に再建し、天平8年妙見大明神を稱へた。

 正平13年懐良親王願主となり、菊池武光資を献じ、葉室惟言改築す。

 黒田藩政の時、長清社殿を南の山上より今の地に遷し、元禄5年宮司青山敏文は禁裡に願ひ、もとの多賀大神に改め、御神馬渡御の御神幸を復興す。

 維新後明治35年及び昭和14年境内を拡張し、本殿以下を改築す。

 元禄12年(1699年)、 向井去来 は頓野の原田一定を訪れている。

 享保元年(1716年)5月2日、 沢露川 と門人燕説は黒崎から直方を訪れ、頓野の原田一定子の庵に滞在している。

 享保3年(1718年)、 志太野坡 は筑紫行脚中に直方を訪れる。多賀宮神官青山文雄、直方藩士 有井浮風 が入門。

 享保13年(1728年)3月、野坡は再び直方を訪れ、弟子たちと上野の皿山や白糸滝を見物する。

   皿山ノ瀑布にて

投入て瀧見がほなり折躑躅


 その時、文雄は「くれて行春引きとめよ滝の糸」、浮風は「けふのみと芽花の花を惜しみけり」と詠んでいるそうだ。

多賀宮奉納の歌仙興行。

4月6日、多賀社の神官に可文の俳号を与える。

産声は仏にあらず郭公   可文


 明和9年(1772年)5月4日、蝶夢は直方を訪れ文紗の別荘に泊っている。

 黒崎ははや筑前の国なり。そのかみ伊予掾純友兄弟のこもりし所か。木屋の瀬より川づらにそひて行ば、直方にいたる。文紗といふ人の別業にやどる。


 文化2年(1805年)10月15日、 太田南畝 は多賀神社に参詣している、

人家ある所を能方(ノウガタ)新町といふ。多賀大神の祭とて笠鉾に人形つくりものあり。田間をこえて左の方に大きなる鳥居たてり。これ多賀大神なり。日若祭とかける幟をたつ。又幟二本をたてゝ一には瓊矛之徳開此日域、一には浮橋之計創夫神道とかけり。此村の學究の文なるべし。石坂の右に芝居あり。男女老少ともにむらがり集りて賑はゝし。輿より下りて石坂を上り本社にぬかづく。きねがつゞみの音さすがにひなびたり。末社に祇園あり。坂を下りてあゆむ。門前の兩側に箱みせをつらねて、わらべの玩びもの小間ものなどならべたるさま、都下の神社の縁日といふものにたぐふべし。

『小春紀行』

社務所手前の石段を下りて行くと、芭蕉の句碑があった。


古池や蛙飛こむ水のをと

出典は『蛙合』(仙化編)。

貞亨3年(1686年)春、 深川芭蕉庵 で詠まれた句。

明治24年(1891年)、岩野柳影建立。

 碑陰に柳影の「夢の世の忘記念(わすれがたみ)や一夜草」という句が彫られている。

「一夜草」はスミレの別称。

直方市石炭記念館 へ。

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