このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

俳 人

下郷蝶羅
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 尾張鳴海の 下里知足 の孫。常和 の弟。酒造業千代倉の江戸北新川支店を営む。俳諧を 大島蓼太横井也有 に学ぶ。別号春麗園。

下郷家本家(千代倉屋)


 享保8年(1723年)、 下郷蝶羽 の十四男として生まれる。

 寛保3年(1743年)、東国紀行『蝉衣』。

 宝暦8年(1758年)7月27日、大島蓼太は吉野行脚の途上千代倉家を訪れ、蝶羅に会っている。

七月廿七日 快晴残暑強 夕方江戸通り塩町、雪中庵蓼太と申点者、推□今夕留ル。夜ニ入猶水、亀章、亀洞、蝶羅、自分一順有。嵐雪翁道統のよし。

『千代倉家日記抄』

 明和6年(1769年)4月5日、蝶羅は或時庵嵐亭と共に江戸を発し、22日仙台に至る。 『松のわらひ』 5月7日、仙台を立ち象潟に向う。 『合歓のいひき』

 明和6年(1769年)4月15日、 田中千梅 は江戸深川で没。享年84歳。

 明和8年(1771年)4月9日、諸九尼は下郷蝶羅を訪ねている。

 千代倉 氏を尋ぬ。此あるじは代々風雅の心ざしを続て久し。むかし芭蕉の翁も爰に杖をやすめ給ひ、旅の調度の笈をのこし置給ふをみる、その様よのつねの笈にはあらで、手箱とも思はれ侍る。かのうら嶋が玉手箱にハことかはり、あけてなつかしきいにしへの文ども多くこめられたり。


 明和8年(1771年)4月、木兎坊風石は奥羽行脚の途上蝶羅の家に泊っている。

   鳴海なる蝶羅子にやとる

星崎を問へは卯の花曇りけり
   木兎


安永2年(1773年)10月、蝶羅は「春雨塚」建立。



   此御寺の縁起人の
   かたるを聞侍りて
 芭蕉翁
笠寺やもらぬ岩屋も春の雨
   桃青

   旅寢を起す花の鐘撞
   知足

かさ寺や夕日こほるゝ晴しくれ
    素堂

   大悲のこのは鰭となる池
   蝶羽

安永5年(1776年)5月6日、54歳で没。

蝶羅の句

稲妻のまたかたまらぬ螢哉


混沌と子細らしくも若菜かな


春の夜を買尽したる牡丹哉


名月や江戸から見ても富士の雪


よしや君よしや君とて枯野哉


   松はら庵の賀

七種に先自在なる庵主かも


梅咲やたしか五山の小僧たち

蕉門むかし語』 片枝は雨片枝は柳哉

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筏士の頤長し今朝の霜


梅さくや宮様領の水の味


むらむらと深山桜にのぼり哉


鶯や外科とも見へす竹格子


さうぶ湯のあとはさゝ湯の節句哉


八景を十にも見せつ晴しくれ


   高 館

只今たゝ山と川のみ諌鼓鳥


一夜一夜月も細りて鹿の声


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