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俳 人
松井素輪
本名は松井平四郎、後儀兵衛。前橋本町の本陣主人。初号竹令。喝祖坊。
可都里
『名録帖』
に「素輪
前橋八田屋
松井義兵衛」とある。
前橋の名門で門弟1,000を有する勢力があり、当時全国の俳人で前橋の素輪を知らない者はなかったそうだ。
享保17年(1732年)1月24日に生まれる。
三日月や広い空にも曲げて置く 竹令
寛延2年(1749年)の句である。
寛延3年(1750年)1月13日、
雲裡坊
に素輪の号を授与された。
明和3年(1766年)11月7日、建部凉袋は素輪のもとへ。
美昭はあどひて、前橋なる素輪
(シロワ)
がりともにやどる。三日ばかりとゞまりて、あるじ素輪伴ひて伊勢崎の国府に行。玉村なる勇水、きぞより来て有しが、同じくつれぬ。
『三野日記』
明和9年(1772年)8月、江戸の俳人摩訶窓珪山の発起で、伊香保温泉に
芭蕉の句碑
を建立。建立者の中に素輪の名がある。
安永8年(1779年)冬、麦林舎
乙由
の句碑を建立。
祖父祖母の孫にもあまき十夜哉
前橋市の
正幸寺
に芭蕉の句碑を建立。
麥めしにやつるゝ戀や里の猫
安永9年(1780年)建立の句碑らしい。
『諸国翁墳記』
に「
里 塚 上野前橋正幸寺
ニ
アリ 喝祖坊素輪建立
」とある。
天明元年(1781年)、素輪社中約2000人によって
徳沢の観音堂
に芭蕉の句碑を建立。
文月や六日も常の夜には似す
喝祖坊素輪筆。
『諸国翁墳記』
に「
文月塚 厩橋縣徳澤
ニ
アリ 同社中建之
」とある。
寛政4年(1792年)3月、素輪社中の素夕、虎輪、戌輪等々は地元に
芭蕉の句碑
を建立。
山路來て何やら床しすみれ草
三日月素輪筆。
寛政4年(1792年)5月8日、61歳で没。
前橋市の正幸寺に素輪の句碑がある。
三日月や広いそらにも曲て置
前橋市三河町の隆興寺に墓がある。
かんことり水も流れて止らず
素輪の句
梅にして伐は松なりけふの雪
『そのきさらぎ』(第四編)
うくひすやむめほの白き朝朗
『蝉乃声』
我しらぬむかしを今もしくれけり
『しぐれ会』(安永2年刊)
鯉はねて水動けりかきつはた
『
俳諧
菊の露』
夢はかれ野の句を思ひ出奉りて
かけめくる木のはにあはれみる日哉
『しぐれ会』(安永4年刊)
しくれ行時雨きにけり村しくれ
『しぐれ会』(安永5年刊)
椎の木の時雨しくれてぬれにけり
『しぐれ会』(安永6年刊)
鶏頭の花に重みや夕しくれ
『しぐれ会』(安永7年刊)
ぬれ色にむかしなつかし初時雨
『しぐれ会』(安永8年刊)
見る間なく霧晴きりのかゝる也
『春秋稿』(初篇)
ぬれぬれて木の葉しつまる時雨
(※「雨」+「衆」)
かな
『しぐれ会』(安永9年刊)
うぐひすの桜に啼てはるくれぬ
夕かぜや埋れし谷の霧うごく
『春秋稿』(第二篇)
竹植る顔に葉わけの嵐かな
『春秋稿』(第三篇)
蘂に纏ひ梅がゝ長くたもちけり
『安佐与母岐』
さびしさやおこらんとする炭の音
『菅の小蓑集』
植女
(をとめ)
等を見にゆくも君が世なる哉
雁がねや芦の根そゝぐ水はやき
木がくれてきぬたひるうつ嬬
(やもめ)
かな
『春秋稿』(第五編)
鵙なくや丘ぬるでに夕日さす
『葛の葉表』
遠里や日暮に低きいかのぼり
『宰府日記』
合羽着て時雨行見よ長堤
『しぐれ会』(寛政元年刊)
跨んとすれハ母なり郭公
『華鳥風月集』
雪車の裏いさ叩かせん初液雨
『しぐれ会』(寛政2年刊)
郭公けぶりときえて淺間山
『水薦苅』
さしもなき物にかれ野のむら烏
『古今綾嚢』
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