八丈島歴史民俗資料館
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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     16 大賀郷「大里」地区

八丈島を手っ取り早く知るにはちょうどよい資料館

八丈島の歴史ある民俗資料館です。八丈島の自然と文化財、遺跡関係の考古資料、農具や漁具などが展示された民俗資料、流人の歴史などが展示されており、島内ではほとんど見られなくなった高倉が屋外に保存されています。

八丈島では数少ない有料施設ですが、八丈島の文化や風俗、歴史を知ることができるので、八丈島のことを詳しく知りたいのならば訪れておきたいスポットです。飛行機の待ち時間や、雨の日の観光スポットにも最適です。

開館時間 / 9:00〜16:30(定休日なし)
入館料 / 大人360円・子供170円(15名以上は大人310円・子供150円)・島民は無料







旧八丈支庁舎の民族資料館

前日に民族資料館のすぐそばに宿をとっていたので朝食前の朝の散歩で訪れてみましたが、開館前だったので敷地内の庭園を見て回ります。改装された旧八丈支庁舎が資料館として使われており、東京都八丈支庁の古い看板が掲げられていました。

八丈島の政治の中心地は380年以上も続いて来た陣屋でしたが、明治14(1881)年、東京府によって陣屋が廃止されて島役所が設置されます。 その後の明治33 (1900) 年に島役所に変わって八丈島島庁ができ、 大正15 (1926) 年に八丈支庁となって支庁長が任命されるようになりました。

建物自体が平成11 (1999) 年に国の有形文化財に登録されています。 しかし、この通りかなり古めかしいです。






様々なアイテムがところ狭しと展示されている庭園

庭園には巨大なツボや石碑が立ち並び、かつて漁に使われた小舟も置かれていました。その奥には高倉が見えています。ヤシの木のある庭園は南国風の情緒が漂います。






珍しい穀物倉庫「高倉」が保存されていました

八丈島の代表的な建築物である高倉です。民家のようにも見えますが、高温多湿な八丈島で穀物を湿気やネズミからまもるための木造高床式の穀物倉のことです。柱が床と背する部分にネズミ返しが着いていましたが、江戸時代頃からあった高倉は今ではほとんど見られなくなりました。

倉を支える支柱の数が6本なので六脚倉(ろっきゃくぐら)と呼ばれていますが、その数の多さも珍しいそうです。なお、左手に見えている高倉は四脚倉。






保存されている高倉の案内板

東京都指定有形文化財(建造物) 高倉(六脚倉)
八丈島では多雨湿潤の風土条件と鼠害から収穫物を守るため、
高倉が一般的に建てられました。
この高倉は、建築様式から江戸末期頃に建てられたと推察されます。

地盤からおよそ1.3mの位置に高床を組み、床下は柱のみ、床上は縦板壁で囲み
閉鎖的な貯蔵施設とする、いわゆる高倉の形式で、屋根は茅葺です。

柱は、桁行に3本、梁間に2本の計6本と、十ニ脚倉に比べると一回り小さいですが、
柱に床用の桁と梁を差し込んで構造材を固定する工法と、
柱から四方に張り出した片持梁の構造は同じで、高床式の特徴がよく出ています。

学術的にも価値が高く、八丈島の生活様式を知る上で貴重な建物です。
平成20(2008)年度に八丈島歴史民俗資料館へ移築されました。

所在地 八丈島八丈町大賀郷1186 指定 昭和59(1984)年3月22日
平成23年3月 東京都教育委員会






庭園には巨大なツボが!

庭園には巨大なツボが野ざらしで置かれていましたが、なんでしょうかこれ? まさか島酒貯蔵の瓶だったとか? ちなみに八丈島には古来より窯場はなくて、陶磁器類は全て当該から移入されていたそうです。






近藤富蔵没後100年の石碑

八丈島にゆかりの深い近藤富蔵の没後100年の石碑もありました。 72巻にもおよぶ八丈実記を記した八丈島に流された最後の流人です。

近藤富蔵は旗本近藤重蔵の長男で、父の屋敷の利権問題のもつれから隣人7人を斬り殺して文政10 (1827)年に八丈島に流罪となっています。 明治13(1880)年に赦免されましたが、再び八丈島に戻って明治20(1887)年に83歳で没しました。






庭園には巨大な「行幸記念碑」がありました

昭和4 (1929) 年5月29日の昭和天皇の八丈島行幸記念碑もありました。 それは戦前のことですが、写真を当日の夕刊に間に合わせるため、新聞社による八丈島〜東京間の飛行機と電車を乗り継ぐ熾烈なスクープ合戦が行われたそうです。

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