宇喜多秀家住居跡
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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小さな商店の脇に立つ住居跡の案内板

宿泊した宿のそばにあったので朝の散歩で訪れてみた宇喜多秀家住居跡です。流人第1号ということで八丈島の宇喜多秀家関係の史跡は多いですが、住居跡は意外と目立たない場所にありました。






住居跡地は民家の庭先にありました

その奥が住居跡になっている中田商店の脇に回ってみると、そこは人様の庭先でした。なんとなく民家の庭に不法侵入しているよう気にもなりますが、きちんと案内板も立っていることだし、別に問題はなさそうです。






住居跡には宇喜多秀家お手植えの蘇鉄が!
敷地内にはレンガの歩道が設けてあって、奥まった地点に住居跡がありますが、その手前に宇喜多秀家が植えたとされる蘇鉄がありました。八丈島ではサクラを植えて慰めとすることもできずに、ソテツを植えるしかなかったのでしょうか・・・。






お手植え蘇鉄の案内板も立っています
宇喜多秀家縁の蘇鉄
これは秀家が着島時手ずから植えた蘇鉄である。
四百年以上を経た今も秀家の血脈はこの蘇鉄の如く枝分かれし、
多くの子孫に受け継がれている。

慶長11(1606)年着島 明暦元年(1655)病死 享年83才






34歳で流されて50年以上もここで流人生活・・・

お手植え蘇鉄を過ぎた奥まった地点が住居跡ですが、石碑と案内板が建つだけでなにもありません。宇喜多秀家はここで正室豪姫の実家の前田家から2年に一度の間隔で米や食料、医薬品などの仕送りを受けて暮らしていたそうです。それは秀家の存命中だけではなくて、明治の時代まで続きました。

高貴な身分からほかの流人よりも厚遇されていたとも伝えられている宇喜多秀家。島での流人死活は意外と快適だったとされていますが、実際のところは当人に尋ねてみなければ分かりませんね。しかし、流人生活50年は長いです。






住居跡に立つ案内板

宇喜多秀家住居跡
ここは戦国武将・宇喜多秀家(1606年34歳で流人として八丈島へ。以後83歳没までこの島に在住)が住んでいた所であり、現在は池や水路、ソテツなどが残っている。
住居跡の石垣は長く延び、その上には椎の巨木があったが、
大風の危険などから、戦後切り倒され、石垣も半分ほど崩されたという。

この地から秀家の墓や付き添い医師の村田道珍斉屋敷跡に
通じる小道がついている。
この地より海(遠い故郷の岡山城方面)を眺め、望郷の念にかられていたであろう。

宇喜多秀家の和歌
「御菩提の 多子や植介ん 此寺に みのり乃秋曽 久しかる遍き」
「此寺」とは宗福寺のことで、創建は源為朝の子・為宗とされており、
秀家もここを菩提寺としていた。

この歌は、宗福寺と、菩提寺を同じくする為朝家・秀家家の
子孫繁栄を願う歌となっている。

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