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俳 人

松岡青蘿
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通称鍋五郎。美濃派の 玄武坊 に師事。別号山李坊令茶。栗之本。

可都里 『名録帖』 に「青蘿加古川 山李坊」とある。

 元文5年(1740年)、江戸詰姫路藩士松岡門太夫の三男として生まれる。幼くして武沢氏の養子となり姫路藩の江戸詰武士となる。

 宝暦9年(1759年)、身持不慎の故をもって姫路に移される。

 宝暦12年(1762年)、藩を追われ生家に復す。

 明和4年(1765年)、播州に戻り加古川に庵(三眺庵、幽松庵)を結び、栗之本と号す。

 明和5年(1768年)、人丸山下に 芭蕉の句碑 を建立。10月18日、 蝶夢 を招いて句碑供養をした。



蛸壺やはかなき夢を夏の月

月高し塚は木の葉の山になる迄
   蝶夢

   汐風さむくかきあわす袖
   山李

『蛸壷塚』(山李坊令茶編)

 明和8年(1771年)10月12日、山李は義仲寺の時雨会に参列している。

のこりなく湖水をめくるしくれ哉


 安永8年(1779年)2月24日、蝶夢は出雲行脚の途上山李の三眺庵に泊まっている。

午時ばかりに加古の渡の山李がかくれ家につくに、年ごろのなつかしさいひ出して物語るに、そこらしれる人の多く來りて、行さきはるけき道の程なり。足に灸すへよ、杖の竹きりてと、いたはれば、二日ばかりこの三眺庵にやどる。


 安永9年(1780年)10月12日、大磯の 鴫立庵 に芭蕉の句碑を建立。青羅の句が刻まれている。



こよひこそ月の朧に梅朧

 天明5年(1785年)3月7日、 金比羅 に参詣。

 寛政2年(1790年)、二条家の俳諧宗匠となり京都に滞在。

寛政3年(1791年)6月17日、没。

   青蘿か中陰に

かそふるもはかなき秋の日數かな


寛政9年(1797年)、『青蘿発句集』(玉屑編)。自序。 成美 序。

青蘿の句

水鳥や星の中から一あらし


寺々は鐘つき出すや夕しくれ


ひとつ家の昼寐見へ透く青田哉


見渡せば海又うみや秋の暮


冬三月門さす寺の落葉かな


捨し身の持よふなりぬ更衣


草の戸に灯も吹けして小夜しくれ


ゆく春は麦にかくれてしまひけり


若草にわか草ほどの嵐かな


賑はしやうき世のひとのたままつり


   三眺庵閑坐

さし覗く人影さしぬ秋のくれ


待人は来ぬに定て時雨きく


このごろの銀河やおちてそばの花


   よし野にて

花の雪梢は花にわかぬかな


梅もとき小粒に赤し初しくれ


宵暗の名も有る里や梅の花


こからしや二葉吹わる岡の麥


戸口より人影さしぬ秋の暮


春の雁たちさはきては日をおくる


憂人のこゝろに似たる生海鼠哉


暁はまことの霜や後の月


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