このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
俳 人
松岡青蘿
通称鍋五郎。美濃派の
玄武坊
に師事。別号山李坊令茶。栗之本。
可都里
『名録帖』
に「青蘿
加古川
山李坊」とある。
元文5年(1740年)、江戸詰姫路藩士松岡門太夫の三男として生まれる。幼くして武沢氏の養子となり姫路藩の江戸詰武士となる。
宝暦9年(1759年)、身持不慎の故をもって姫路に移される。
宝暦12年(1762年)、藩を追われ生家に復す。
明和4年(1765年)、播州に戻り加古川に庵(三眺庵、幽松庵)を結び、栗之本と号す。
明和5年(1768年)、人丸山下に
芭蕉の句碑
を建立。10月18日、
蝶夢
を招いて句碑供養をした。
蛸壺やはかなき夢を夏の月
月高し塚は木の葉の山になる迄
蝶夢
汐風さむくかきあわす袖
山李
『蛸壷塚』(山李坊令茶編)
明和8年(1771年)10月12日、山李は義仲寺の時雨会に参列している。
のこりなく湖水をめくるしくれ哉
『しぐれ会』(明和8年刊)
安永8年(1779年)2月24日、蝶夢は出雲行脚の途上山李の三眺庵に泊まっている。
午時ばかりに加古の渡の山李がかくれ家につくに、年ごろのなつかしさいひ出して物語るに、そこらしれる人の多く來りて、行さきはるけき道の程なり。足に灸すへよ、杖の竹きりてと、いたはれば、二日ばかりこの三眺庵にやどる。
『雲集紀行』
安永9年(1780年)10月12日、大磯の
鴫立庵
に芭蕉の句碑を建立。青羅の句が刻まれている。
こよひこそ月の朧に梅朧
天明5年(1785年)3月7日、
金比羅
に参詣。
寛政2年(1790年)、二条家の俳諧宗匠となり京都に滞在。
寛政3年(1791年)6月17日、没。
青蘿か中陰に
かそふるもはかなき秋の日數かな
『草根發句集』
寛政9年(1797年)、『青蘿発句集』(玉屑編)。自序。
成美
序。
青蘿の句
水鳥や星の中から一あらし
『しぐれ会』(明和3年刊)
寺々は鐘つき出すや夕しくれ
『しぐれ会』(明和5年刊)
ひとつ家の昼寐見へ透く青田哉
『おもかげ集』
見渡せば海又うみや秋の暮
『
俳諧
有の儘』
冬三月門さす寺の落葉かな
『文くるま』
捨し身の持よふなりぬ更衣
『古河のわたり集』
草の戸に灯も吹けして小夜しくれ
『しぐれ会』(安永2年刊)
ゆく春は麦にかくれてしまひけり
『続明烏』
若草にわか草ほどの嵐かな
『秋風記』
賑はしやうき世のひとのたままつり
『安佐与母岐』
三眺庵閑坐
さし覗く人影さしぬ秋のくれ
『菅の小蓑集』
待人は来ぬに定て時雨きく
『しぐれ会』(天明5年刊)
このごろの銀河やおちてそばの花
『宰府日記』
よし野にて
花の雪梢は花にわかぬかな
『農おとこ』
梅もとき小粒に赤し初しくれ
『しぐれ会』(寛政元年刊)
宵暗の名も有る里や梅の花
『其梅』
こからしや二葉吹わる岡の麥
『潮来集』
戸口より人影さしぬ秋の暮
『
俳諧
百家仙』
春の雁たちさはきては日をおくる
『春秋稿』(第七篇)
憂人のこゝろに似たる生海鼠哉
『続雪まろげ』
暁はまことの霜や後の月
『さらしな記行』
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