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タイ国鉄友の会>車両部>蒸気機関車課>オマケ1

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 今まであまり論じられることはなかったが、タイで日本製の蒸気機関車が好感をもって受け入れられたのは何故かということを憶測したい。それは日本製蒸気機関車がヨーロッパ製の蒸気機関車と比べて、単にカタログスペックの数字と運用上の出力との差が大きくなかったからだけなのだろうか? タイ国鉄現場からは日本製の蒸気機関車の整備性が良かったことを証言しているが、ここに一つの仮説が隠されている。それはタイと当時の日本の基礎工業力の差がタイと欧米諸国のそれと比べて小さかったことが原因なのではないだろうか?

 第二次世界大戦中の日本の基礎工業力は二流だった。戦闘機のエンジンをみるだけで明らかだ。日本以外の国では液冷式エンジンが主流だった。もちろん日本も液冷式エンジン機の開発には着手した。陸軍三式戦闘機「飛燕」に搭載されたエンジンがそれである。ドイツ製液冷式エンジンのコピーを搭載した日本陸軍の三式「飛燕」はルフトバッフェで運用されていた本家のメッサーシュミットBf109Eなどと比べても遜色のない戦闘機だったことは事実だ。だが「飛燕」が初期に投入された戦場、つまり南方の現場にいる整備工にはその複雑な液冷式エンジンの整備は手に負えなかった。その為に稼働率が低くなり不評だった。結局、作品をコピーすることはできても、それを維持・運用することはできなかったのだ(日本製液冷エンジンの材質制限も大きく影響した。ニッケルの不足、マグネシウム加工技術など、整備工では対処できない問題も大きかった)。

 蒸気機関車でも同じことが言えるのではないかと思う。日本製の蒸気機関車は欧米製のそれと比べれば整備に過酷な精度を要求するものではなかったので、維持・運用することもそれほど難しくはなかった。まさにタイと日本製蒸気機関車の関係は適材適所だったのだ。

 これは日本の技術をさげすむものではない。日本は現場の負担が軽いながらも、なかなか高出力な製品を作り上げたのは驚異的なことだ。

 タイの鉄道は時速120キロで特急を牽引するモダンな蒸気機関車を必要としていたのではなく、最高時速が時速60キロ程度でも確実に運用できるローコストな蒸気機関車を求めていた。決して最高技術水準の結晶である「パシナ型蒸気機関車」を現場が求めていたわけではない。しかし欧米の蒸気機関車は「パシナ型蒸気機関車製造・整備」に要求される規格でタイの蒸気機関車を製造していたのではないかと思われる。

 日本は優秀な主婦が冷蔵庫の残り物を利用して素晴らしい料理を作るように、なんとか手持ちの技術を利用して世界をあっと驚かす製品を作るのが得意なようだ。例えば海軍の零式艦上戦闘機などがそれにあたる。確かに冷蔵庫の残り物を利用した料理ではフランス料理のフルコースには敵わない。しかしふつうの家庭の家計は毎晩フランス料理のフルコースを食べられるほど豊かではない筈だ。そこにタイが賞賛した日本製蒸気機関車の秘密が隠されているような気がしてならない。

 ただしタイが日本製蒸気機関車ですら、しっかりと整備できていたかは怪しいところだ。大井川鉄道に買い取られたタイ国鉄のC5644のケースだが、整備を開始したときに「あ"〜」と声が上がったことを知る人は少ない。それは途中で穴の空いた一部の煙管の前後を詰めて、手抜きの整備で無理矢理に走行させていた事実が明らかになった、瞬間だった。おそらく構造が単純で、余裕の大きな日本製蒸気機関車だったこれでよかったのだが、これが欧米製だったならばと考えるとどうだろう。きっと大きなトラブルが生じていただろう。

 煙管の前後を塞ぐ際にはきっとタイの現場ではこんな会話がなされていたと創造できる。

「オ、オ〜イ。カンナイ・シア・レーオ(あ〜、中壊れているよ)」

「ソム・ダーイ・バ?(直せるのか?)」

「ダーイ。テー・ソン・サム・ワーン、ウィン・メ・ダーイ・ナ(できるよ。でも2〜3日は走れなくなるよ)」

「メ・ダーイ。シア・ウェーラー・メ・ダーイ(駄目。時間がもったいない)」

「カオチャイ・ダーイ。ウィン・ダーイ・ゴ・マイペンライマイ?(だよね。走れればどうでも良い?)」

「ダーイ・シー。タム・ヤンガイ・ゴ・ダーイ(走れりゃなんだっていいよ)」

「プロー・サイ・レック・ティー・ニー、レオ・ゴー・ティー・ナン。アイナーム・マイ・オーク(そことあそこを溶接でふさいぢゃえば、蒸気漏れは止まるよ)」

「ゲン・ナー。ゲン・チャン・ルゥーイ(やっぱ頭良いよあ。すっげーよー)」

「ルゥー・レーオ・シー(今頃知ったのかよ)」

一同笑いの渦。で、帰宅する。

 ああ、すごくありそうな風景。これは現在ではタイでの自動車修理工場に確実に受け継がれている『傾向』です。

 

 それとこんな事情も追加しておきます。当時の世界の先進国の鉄道はそろそろ蒸気機関に見切りをつけ始めていました。それはディーゼル機関などへの技術の移行が始まっていたということです。その中で日本ではまだまだ蒸気機関が主流であり続けてたことも、日本製蒸気機関車にとって追い風になっていたとも考えられます。これは戦闘機のプロペラ推進(レプシロエンジン)からジェット推進への移行に近い、技術革新です。ジェット推進になったことによりプロペラ推進の飛行速度の壁を突き破ったように、蒸気機関からディーゼル機関になって多くの運用上の問題が解決されました。朝鮮戦争で米軍のP51が善戦しながらもソ連製Mig-15を一機も撃墜できてないことを考えると、プロペラ推進とジェット推進の関係が蒸気機関とディーゼル機関の関係にだぶって仕方がありません(P51とF-80シューティングスターの勝負ならそうでもなかったのでしょうが……)。



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