このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
石川啄木ゆかりの地
〜年譜〜
明治33年(1900年)7月20日、石川啄木は
気仙沼
に宿泊。生まれて初めて海を見たそうだ。
明治35年(1960年)5月28日、盛岡中学5年生の修学旅行で
石巻
を訪れた。
明治35年(1902年)11月9日、石川啄木は
東京新詩社
を訪問して初めて与謝野鉄幹に接し、翌日与謝野晶子に会う。
明治37年(1904年)9月28日、上京に先立ち北海道に渡ろうと、
尻内
から鉄道に乗る。
明治37年(1904年)9月29日、初めて
野辺地
を訪ねる。
明治37年(1904年)9月から10月にかけて、
小樽
を訪れている。
明治38年(1905年)5月、東京で処女詩集『あこがれ』を出版。
明治38年(1905年)5月30日、「花婿のいない結婚式」を挙げる。
明治38年(1905年)6月4日、
「新婚の家
」に顔を見せた。
明治38年(1905年)6月25日、
加賀野磧町
に転居。
明治38年(1905年)9月5日、『小天地』発行。
明治39年(1904年)12月29日、節子の実家で長女京子誕生。
明治40年(1907年)5月4日、故郷を出て妹光子と共に津軽海峡を渡った。
明治40年(1907年)5月5日、
函館
に着く。
明治40年(1907年)7月7日、離散していた妻子を函館に呼び寄せる。
明治40年(1907年)8月2日、
野辺地
に滞在していた母カツを迎えに行き、4日、函館に連れ帰る。
明治40年(1907年)8月25日、函館大火。
明治40年(1907年)9月23日、初めて
野口雨情
と逢う。
明治40年(1907年)9月、小樽日報社に赴任。
明治40年(1907年)12月13日、新聞社の事務長小林寅吉と論争し、殴られたという。
明治41年(1908年)1月19日、小樽を発ち釧路へ向かう。
明治41年(1908年)1月21日、石川啄木は
釧路停車場
に降りた。
明治41年(1908年)4月6日、釧路から「酒田川丸」で
宮古
を経由して函館に向かう。7日、函館に着く。
明治41年(1908年)4月13日、函館発。14日、小樽着。野口雨情君と逢う。
明治41年(1908年)4月19日、一家4人で小樽を発つ。20日、函館に着く。
明治41年(1908年)4月24日、宮崎郁雨に家族を託し「三河丸」で上京。
明治41年(1908年)5月、北海道の放浪生活を経て上京し、金田一京助を頼って
赤心
(せきしん)
館
に同宿した。
明治41年(1908年)5月2日、与謝野鉄幹に連れられて
観潮楼歌会
に出席。
明治41年(1908年)9月6日、
蓋平館別荘
に移る。
明治42年(1910年)3月、
朝日新聞社
に校正係として勤務。
明治42年(1909年)6月、東京で初めて
「喜之床
(きのとこ)
」
に新居を構えた。
明治42年(1909年)10月4日、長男真一誕生。
明治42年(1909年)10月27日 長男真一死去。
明治42年(1909年)12月1日、『一握の砂』(東雲堂)刊行。
明治44年(1911年)8月7日、
小石川
の借家に移る。
明治45年(1912年)4月13日朝、26歳で短い一生を終わった。
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