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芭蕉ゆかりの地



『芭蕉翁繪詞傳』   ・   ・ 

 寛政4年(1792年)、義仲寺の 蝶夢 法師は芭蕉翁百回忌供養に『芭蕉翁絵詞伝』完成させる。

 元禄三午の年、都近き伊賀に、年をとり給ひて、

       薦をきて誰人います花の春

 神路山に詣で給ひては、西行の涙をしたひ、増賀の信を悲しむとありて、

       何の木の花とも知らず匂ひかな

      裸にはまだ衣更着のあらしかな

 二見の浦にて

       疑ふなうしほの花も浦の春

   芭蕉の影 其二十三

侘びられし俤ゑがく時雨哉
    杉風

入る月や時雨ると空の底光り
    丈草

曉の墓もゆるぐや千鳥數寄
   同

蓑蟲の音を聞きに來よ草の庵
   芭蕉

夫婦岩


 今年の一夏は國分山に籠り、山を下らで、里の童に谷川の石を拾はせて、一石に一字づゝの法華經をうつし給ふことあり。その記に、

 石山の奥、岩間の後に山有り、國分山といふ。其のかみ國分寺の名を傳ふなるべし。麓に細き流を渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たゝせ給ふ。 神躰は、彌陀の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなる事を、兩部光りを和げ、利益の塵を同うし給ふも亦貴し。日頃は、人の詣でざりければ、いと神さび物靜かなる傍に、住みすてし草の戸あり。 蓬・根笹軒をかこみ、屋根もり壁落ちて、狐狸ふしどを得たり。 幻住庵 といふ。主の僧某は、勇士菅沼氏、曲水子の叔父になむ侍りしを、今は八年ばかりして、正に幻住老人の名をのみ殘せり。 予れ又市中をさる事十年ばかりにして、五十年やゝ近き身は、蓑虫のみのを失ひ、蝸牛家をはなれて、奥羽象潟の暑き日に面をこがし、高砂子あゆみ苦しき北海のあら磯に踵を破りて、今年湖水の波に漂ひ、にほの浮巣の流れとゞまるべき芦の一本のかげ頼もしく、軒端茨(ふき)あらため、墻根結ひそへなどして、卯月の初め、いと假そめに入りし山の、やがて、出でじとさへ思ひそみぬ。

       先づたのむ椎の木もあり夏木立

幻住庵


愚按、幻住菴記は、猿蓑集にあり。國分山の菴の跡には、蕉翁八十年に當り給ふ時、予しるしの石を建つ。又石經を埋み給ふ上には、勢田の住人、雨橋、扇律等經塚の二字の石を立てぬ。

   芭蕉の影 其二十四

名月や門にさし來る汐かしら
   芭蕉

芭蕉翁幻住庵舊趾
   
芭蕉翁經塚

   


 雪のあした、湖水を眺め給ひて、

       比良三上雪かけわたせ鷺の橋

 元禄四未の年、粟津の 無名庵 に、春を迎へ給ふ時、

       大津繪の筆の始めは何佛

 湖水を望みて、春を惜しみ給ふに、

       行く春をあふみの人と惜しみける

 嵯峨なる去来が別業、 落柿舎 に日頃掛錫し給ふに、作り磨かれし昔しの樣より今のあはれなる樣こそ心とゞまれ、彫らせし梁(うつばり)畫ける壁も、風に破れ雨にぬれ、奇石怪松も葎の下に隠れたる竹縁の前に、柚の木一本、花香ばしければ、

      柚のはなに昔しを忍ぶ料理の間

      さみだれや色紙へぎたる壁のあと

   芭蕉の影 其二十五

起きあがる菊ほのかなり雨の跡
   芭蕉

  陸奥千鳥
    桃隣

    殺生石

哀れさや石を枕に夏の蟲

汗と湯の香を振分くる明衣哉

落柿舎


 小督の局の舊跡は昭君村の柳、巫女廟の花の昔し、思ひやらるとて、

      うきふしや竹の子となる人の果

愚按、 嵯峨日記 にあり。

 四條の河原納凉を見て、かき連ね給ひけるは、夕月夜の頃より有明過ぐる迄、川中に床をならべて、夜すがら酒飲み、物食ひ遊ぶ。女は帶の結目嚴めしく、男は羽織長う着なして、法師老人共に交はり、桶屋かぢやの弟子ら迄、暇えがほ罵る。流石に都の景色なるべし。

      河風やうすかき着たる夕凉み

   芭蕉の影 其二十六

金屏の松の古さよ冬ごもり
   芭蕉

君火たけよき物見せむ雪丸け
   芭蕉

 月見むとて、船を堅田の浦に泛め給ふに、待つ程もなく月さし出てゝ、湖上花やかに照渡れり。かねてきゝぬ仲秋望の日は、月の浮御堂にさし向ふを鏡山といふなるよし、今宵尚其のあたり遠からじと、かの堂上の欄干によるに、水面に玉蟾の影を碎きて、新に千體佛の光りを添ふ。

       鎖明けて月さし入れよ浮御堂

   芭蕉の影 其二十七

年の市線香買ひに出でばやな
   芭蕉

  陸奥千鳥
    桃隣

   關 山

奥の花や四月に咲を關の山

氣散じや手形もいらず郭公

   須ヶ崎

頃も夏瀧に飛込こゝろかな

   小名濱

初鰹さぞな所は小名の濱

   緒絶橋

橋に來て踏みゝふまずみ蝸牛

茂れ茂れ名も玉川の玉柳

浮御堂


 三秋を經て江戸に歸り、 住菴 におちゐ給ふに、舊友門人いかにととへば、

      兎も角もならでや雪の枯尾花

 元禄五申年、江戸に春を迎へ給ひて、

       年々や猿にきせたる猿の面

      數へ来ぬやしきやしきの梅柳

 古き菴近く、新に菴を作りて人々の參らせけるに、茅屋つきづきしう、松の柱竹の枝折戸、南にむかふ地は、富士に對して柴門景をすゝめて斜めに、淅江の潮、三股の淀に湛へて、月を見るたより宜し、名月の粧ひにとて、先づ芭蕉を移す。その葉廣うして琴を覆ふに足れり。或ひは半ば吹折れて、鳳鳥の尾を痛め、青扇破れて風を悲む。たまたま花咲くとも、花やかならず、茎太けれども斧に當らず。かの山中不材の類木にたぐへて、その性よしとや。 深川大橋 の造作の頃

      初雪や懸けかゝりたる橋のうへ

 元禄六酉のとし、江戸におはして、隠れ家の春の心を、

       人も見ぬ春やかゞみの裏の梅

 みちのく岩城の露沾のきみが、館の花見に招かれ給ひて、當坐、

       西行の菴もあらむ花の庭

 深川の末にて、船に月見給ふ折りふし、

       川上とこの川下や月の友

 元禄七戌のとし、春立ちそむるより、故郷の方ゆかしとやおぼしけむ、

       蓬莱にきかばや伊勢の初だより

 上野の花見にまかり給ふに、幕うち、騒ぎ、ものゝ音の声さまざまなる傍の松かげを頼みて、

       四つ合器のそろはぬ花見心かな

 尾張にて舊交の人に對して、

       世を旅に代かく小田の行きもどり

 伊賀の雪芝が許におはせし時、庭に松植ゑさせけるを、

       涼しさやすぐに野松の枝のなり

 嵯峨の小倉山なる、常寂寺に詣で給ひて、

       松杉をほめてや風のかをる音

 同じく大堰川の邊りを逍遥し給ひて、

       六月や峰に雲おくあらし山

   芭蕉の影 其二十八

  陸奥千鳥
    桃隣

    淺香山

早乙女に土器投げん淺香山

   山の井

山の井を覗けば答ふ藪蚊哉

    安達ヶ原

塚ばかり今も籠るか麥畠

    文字摺石

文字摺の石の幅知る扇哉

    丸山城跡

星の井の名も頼母しや杜若

丸山の構へも武き若葉哉

   次信忠信両妻の像

軍めく二人の嫁や花あやめ

    武隈の松

武隈の松誰殿の下凉み

實方中將及馬の塚

言の葉や茂りを分けて塚二つ

   仙 臺

落つくや明日の五月にけふの雨

嵐山


 舊里に歸り、盆會榮み給ひし時、

       家は皆杖に白髪の墓まゐり

 月の夜ごろ、同じ國におはして、

      今宵誰れ吉野の月も十六里

 九月八日、 支考惟然 をめしつれて、難波の方へ旅立ち給ふ。こは奈良の舊都の九日を見むとなり。はらからも、遠く送りいで、互に衰へゆく身の、此の別れの一しほ力なく思ほゆるとて、供せし支考、惟然に、介抱よくしてなどいひて、後影見ゆる限り、立ちておはしけるとぞ。其の夜は猿澤のあたりに宿り給ふに、月隈なく鹿も聲亂れて、あはれなれば、

      ぴいとなくしり聲悲し夜の鹿

   芭蕉の影 其二十八

  陸奥千鳥
    桃隣

   宮城野

もとあらの若葉や花の一位

   南村にて病氣

凌宵の木をはなれてはどこ這はん

一息は親にましたる清水かな

    十符の菅

刈比に刈られぬ菅や一構

    鹽 釜

禰宜呼びに行けば日の入る夏神樂

月凉し千賀の出汐は分の物

    松 島

橘や籬が嶋は這入口

橋二つ滿汐凉し五大堂

   とみの山

麥喰うて島々見つゝ富の山

 故郷を出で給ひて後は、なやみ勝ちに煩ひ給ふに、或時ひとりごち給ふは、

       此秋は何で年よる雲に鳥

 三十日の夜より、泄痢といふ病ひに、いと強く悩み給ひて、物宣ふも力なく、手足氷れる如くなり給ふと聞くより、京よりは 去來 、太刀も取敢へず馳下り、大津よりは木節、藥嚢を肘にかけてかちより來つき、 丈草 をはじめ、 正秀乙州 が輩迄、聞くに從ひて難波に下り、病ひの床にいたはり仕へ奉つる。元より心神の煩ひなければ、不浄を憚りて人を近くも招き給はず。十月五日の朝より 南の御堂 の前、静かなる所にうつし參らす。

愚按、この家、 花屋仁右衛門 といふが別屋にて、今にあり。

 八日の夜ふけて、かたはらに居ける、呑舟といふ男を召して、硯にすみする音のしけるを、如何ならんと、人々いぶかり思ふに、

       旅に病みて夢は枯野をかけめぐる

 また、枯野をめぐる夢心ともせばやとまむ、これさへ此の世の妄執ながら、風雅の道に死せん身の、道を切に思ふなり、生死の一大事を前に置きながら、此の道を心にこめ、いねても朝雨暮烟の間にかけり、醒めても山水野鳥の聲に驚く、之を佛の妄念といましめ給へるも、今ぞ身に覺え侍る。此の後は只生前の俳諧を、忘れ侍らむとのみ思ふよと、返すがへすも悔み給ふとかや。

   芭蕉の影 其三十一

  陸奥千鳥
    桃隣

   石の巻

茂る藤やいかさま深き石の巻

金華山

 ○御手洗や夏をこぼるゝ金華山

 九月十日、特に苦しげなるに、十日の暮より其の身熱(ほとぼ)りて常にあらず。 去來 を召してやゝ物語りあり。自ら一通の文認め給ふ。兄の許へ送らるゝなるべし。其の頃 其角 は、人と伴ひて紀の路迄上りし道、さるべき契りありてや、此の地にかく悩みおはすと聞いて胸騒ぎ、とく尋ね參りて、病床を伺ひ、力なき聲をきゝて、言葉をかはせりとぞ。十一日の夜、木節をめして宣(のたま)ひけるは、我が往生も明暮にせまりぬとぞ覺ゆる。元より水宿雲棲の身の、此の藥かの藥とて、果敢なく求むべからず。願はくば老人の藥をもて、唇をぬらしさふらはんと、深く頼みおき給ひて、後は左右の人を退けて、不淨の身を浴し、香を焚いて安臥し、ものいひ給はず。十二日の申の刻ばかりに、ねぶれるを期として、死顔美はしく笑を含み給ふ。行年五一歳なり。其のからに物うちかけ、長櫃に納れて其の夜密かに、商人の用意に拵へ、川船にかきのせて、去來、其角、 丈草 より、壽貞が子の次郎兵衛迄、十餘人なきがらを守り奉つり、夜すがら笘洩る露霜の雫に袖寒く、一人一人聲たてぬ念佛申して、年頃日頃の頼もしき詞、睦まじき教へを偲びあふ。常に東西に招かれて、越の白山の知らぬ果てにて、かくもあらば、聞いて悲しむばかりならんに、一夜もなきがらに添ひ奉りつること、互の本意なれと、あるは喜びあるは歎きて、十三日の朝伏見に着く。

   芭蕉の影 其三十三

  陸奥千鳥
    桃隣

   金華山

黄精の花やきんこの寄り所

水晶や凉しき海を遠眼鏡

    高 館

金堂や泥にも朽ちず蓮の花

田植等のむかし語りや衣川

軍せむ力も見えず飛ぶ螢

虹吹いてぬけたか凉し龍の牙

 この夜、膳所より、臥高、昌房、探志の面々は、行違ひて難波に下り、伊賀の親しき誰彼は、大和路を越えて、同じく來りしも、空しきからにさへ遅れ參らせて、悲しく別れゆきしとぞ。

 伏見より、手々に擔きもて、粟津の 義仲寺 に移し奉つる。茲なむ、國分山の椎がもとは、浮世へ遠くて跡とふものゝ、水向けむに頼り惡しゝ、木曾殿と塚を並べてとありし、常の言草によるものならし。からに召させ奉つる淨衣は、智月の尼、乙州が妻、縫ひて着せまゐらす。十四日、夕月夜打曇りがちに、物思へる月影のいと憐れなるに、木曾塚の右に並べ、土穿ちて納め奉つる。義仲寺の直愚上人を導師として、各々燒香し奉つるに、京、難波、大津、膳所より、被官、隱者迄も此の翁を慕ひ奉つり、招かざるに來り集まるもの三百餘人也。此の地に自らふりたる松あり、柳あり。かねて塚となるの謂れならむと、其の儘に卵塔をまねび、あら墻をゆひ、冬枯の芭蕉を植ゑて、名の記念とす。常に、風景を好み給ふ癖ありけるに、所は長等山を後にし、前には漣清く湛へて、遺骨を湖上の月に照すこと、かりそめならぬ徳光の至りなるべし。

   芭蕉の影 其三十四

  陸奥千鳥
    桃隣

   荒 野

朴木の葉や幸ひの下凉み

   古川秋山壽子の宿

暑き日や神農慕ふ道の草

   小町塚

晝顔の夢や夕日を塚の上

    盤提山

爲家の山梔白し盤提山

   山路吟

おそろしき谷を陰すや葛の花

焼飯に青山椒を力かな

愚按、芭蕉翁の三字の石碑は其の時に僧 丈艸 が筆にて、 其角去來 の輩(ともがら)、建てぬとかや。廟の回りの石垣は、百川法橋經營し、行状の碑文は、角上 老人彫刻す。芭蕉堂は蕉翁八十年の昔しおのれ蝶夢造立し、粟津文庫は百年の今 沂風 成功す。


   法橋狩野正榮至信

『芭蕉翁繪詞傳』   ・   ・ 

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