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芭蕉ゆかりの地
『芭蕉翁略伝』
(幻窓湖中著)
弘化2年(1845年)、刊。
幻窓湖中
編輯。西巷野巣校合。
芭蕉菴桃青翁は伊賀國阿拜郡
柘植村
の人也。平士彌平兵衞宗清苗裔、
其類同郷に姓をわかつ。柘植氏、松尾士、福地氏等也。宗清が屋敷の跡今に存す。庭に大なる石の手水鉢あり。
松尾儀左衞門と云人に三子有。長を與左衞門
諸書に此人なし。半左衞門とあり。伊賀より出せる芭蕉傳集の説に據て爰に出す。
と云。同国上野赤坂町に手蹟師範を以家業とす。次を半左衞門命清と云、藤堂主殿
一説九兵衞
長基の臣也。三は則芭蕉翁也。
正保元
甲
申歳
生れ給ひて幼名を松尾半七
一説甚七郎、又稱金作
後改めて忠左衞門宗房と稱す。母は豫州
宇和島
の産、桃地氏の女也。
芭蕉翁繪詞傳
に云、宗清領所なれば伊賀國阿拜郡柘植庄に忍住す。其子土師三郎家清、夫より五代を經て、清正と云人に子數多ありて家をわかつ。山川、勝島、西川、松尾、北河と名乘、代々柘植庄に住り。其末に松尾與左衞門と申せし人、初て國の府なる上野の赤坂に住り。是芭蕉翁の父也。母は伊豫の國人也。姓氏さだかならず、其子二男四女あり。嫡子儀左衞門命清後に半左衞門と云。次男半七郎宗房、童名金作、是翁也。後に名を更て忠左衞門と云。
同愚案、
蕉翁全傳
には蕉翁の俗名藤七郎とあり。藤堂家には半七郎と呼りとぞ。兄を半左衛門といへるは、さるを浪華の
遊行寺
に野坡が建し碑には甚質と書り。京都の
双林寺
に、支考が建し碑に、百地黨と書しは松尾氏の先祖に百司といひし別姓あり、其謬りなりと伊賀の國人傳ふ。
又曰、柏原の御門の御ながれ、常陸介平正盛と申人の末に右兵衛尉平季宗、其子彌平兵衛宗清。
東鑑に彌平左衛門尉、大系圖に右兵衛尉季宗子宗清、武家系圖に左衛門尉季清、彌平左衛門宗清。
參考保元平治物語に、彌平兵衛宗清、平季宗の子。
同愚案、東鑑に斯あれど、其外の書に宗清の終りし事詳ならず。されば伊賀の蕉翁全傳、或は伊賀の國人の説に從ふ。そが上大系圖宗清が母の系譜に柘植と號したるならん。たとはゞ同時に同國同郡服部の人に、服部平内左衛門尉宗長有、是世に云伊賀平内左衛門也。今も柘植郷には松尾と云家多し。
寛文二
壬
寅年
宗房十九歳にして初て藤堂新七郎良精の臣と
なる。夫より嫡子主斗良忠に仕ふ。良忠ある時は宗房を呼で月花をもてあそばれしと也。
良忠俳名蝉吟
此人北村季吟
號拾穂軒 稱再昌院訪印
の門にして宗房と兩吟の巻あり。其外反故ども數多あり。一とせ大坂の役に戰死せられし藤堂新七郎良勝
良精の父にして良忠の祖父なり
遠忌法筵に、
大坂や見ぬ世の夢の五十年 蝉吟
寛文六
丙
午
宗房廿三歳
の夏四月、良忠不幸にして蛋く世を辭せ
らる。宗房深く傷悼して、同六月半遺髪の供して高野山報恩院に収む。
報恩院の過去帳にも松尾忠左衛門殿と記し今にあり。
同月末に下山して、ひそかに遁世の志ありて頻にいとまを乞へどもゆるしなければ、其年秋七月遂に私に主家を避退して、同僚孫太夫の宅門に一封を殘す。
雲とへだつ友かや雁の生わかれ
宗房
と書し短冊也。宗房が宅地は、藤堂新七郎中屋敷城東にあり。良精の臣、兄半左衛門爰に住す。
半左衛門、前に長基臣と有。後に良精に仕るか。孰不知是。
孫太夫は隣家なり。今河合何某住る所宗房の舊宅なり。
芭蕉翁繪詞傳
愚按に曰、此時良忠の子息良長未三歳なりしを、宗房二なく忠を盡し家を繼しむ。されば續扶桑隱逸傳第三巻に。仕府主君而有忠勤云、宗房の住し家は、上野の玄蕃町と云所にあり。
夫より洛に上り在京七年、拾穂軒季吟に遊學す。
元禄三年午加州の
北枝
への消息に、筑紫行脚ありしよし有、其時予二十五歳と云々、是を見れば季吟に遊學中の事なるべし。然ども事跡未詳。
此頃東山の麓に住し、泊船堂桃青と號す。
宇陀法師、又釣月軒宗茂とも書れしと云。
寛文十二
壬
子
行年廿九
九月初て東武に下ル。小石川水樋
に功を殘す。
風俗文選 云、翁嘗世爲遺功修武小石川之水道四年成捨功而入深川
芭蕉庵
出家三十七歳云。
愚案、小石川水樋に功を殘されしといへること文明ならず。一説に松村市兵衛と稱して幕府の普請方を司り玉ひしといへり。今猶其家普請方を司て兩家侍り。位牌印譜反故に在ると云々。藤堂家を憚て、松尾を更て松村と稱し給ひし物か。又松村家は素よりありて其食客に侍りしを、蕉翁の才能をかりて水樋の功をなしたるもの歟。しかれども位牌印譜の存在するをもて見れば、一説實事を得たるものか。二十九歳にて東都に下り、三十一歳にして薙髪し給ふ。其間僅三年也。乍去諸書考る所なし。
天和元
辛
酉
行年丗八
同二
壬
戌
行年丗九
同三
癸
亥
行年四十
和
其角
蓼螢句
其角號寳晋齊又、螺舎、或、狂而堂、本姓は寳井氏也。榎本氏は母方の姓。
朝顔に我はめし喰ふをとこかな
一説に貞享二、其角が大酒をいましめたもふ句といへり。
憂方知酒聖貧始覺錢神といへる白居易の句を前にして、
花にうき世我酒しろく食黒し
此年の冬、
深川の草庵
急火にかこまれ、殆あやうかりしが、潮にひたり蓬をかつぎて、煙の中にいきのび給ひけり。是ぞ玉の緒のはかなきはじめなり。爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を發して、其次の年
佛頂禅師
江戸臨川寺住職
の奴六祖五平と云
甲州の産にして佛頂和尚竹に仕へ大悟したるもの
ものゝ情にて甲斐に至り、かの六祖が家に冬より翌年の夏まで遊ばれしとぞ。
自書に云、甲斐國郡内と云所に至る途中の句吟、
馬ほくほく吾を繪に見るこゝろ哉
一説に甲州の郡内
谷村
と初雁村とに、久敷足をととゞめられし事あり。初雁村の等力山
萬福寺
と云寺に、翁の書れし物多くあり。又初雁村に
杉風
が姉ありしといへば、深川の庵焼失の後、かの姉の許へ、杉風より添書など持れて行かれしなるべしと云。
愚案、世に傳ふ
臨川寺
の佛頂禅師にしたがひて、禪を熟されしと云此頃の事なるべし。
夫より深川に歸りおはしければ、人々悦て燒原の舊草に菴を結び、しばしも心とゞまる詠にもと又ばせを一株を栽たり。
貞享元
甲
子
天和四十月九日改元
深川在庵
行年四十一
春立や新年古き米五升
秋八月故郷ニ赴る。
千里
俗名油屋嘉右衛門
同伴たり。
此時の道の記を甲子吟行、
野ざらし紀行
、或は草枕と云。
野ざらしを心に風のしむ身かな
秋十とせ却て江戸をさす古郷
東海道を登り箱根を越て、
霧時雨不二を見ぬ日ぞおもしろき
富士川
吉原と蒲原の間
の邊に捨子を憐み給ひて、
猿をきく人捨子に秋の風いかに
馬上の風吟、
道のべの木槿は馬にくはれけり
小夜の中山
に到。
馬に寝て殘夢月遠し茶の煙り
伊勢に行て、松葉屋風瀑 實は伊賀の人此時勢州にあり 尋て十日ばかり計足をとゞめ給ひ
外宮
詣
みそか月なし千歳の杉を抱あらし
西行谷の麓を過、
芋洗う女西行ならば歌よまむ
大和より山城を經て近江路に入、美濃に至り、今須山中を過て、
義朝のこゝろに似たりあきの風
不破をこして、
秋風や藪も畠も不破の關
株瀬川の
木因
世に株瀬川の翁と稱す
が家を主として、武蔵野の旅發を觀じ給ひ、
死にもせぬ旅寢のはてよあきの暮
株瀬川の木因
世に株瀬川の翁と稱す
が家を主として、武蔵野の旅發を觀じ給ひ、
死にもせぬ旅寢のはてよあきの暮
此時大垣の
如行
、
荊口
、
大垣の士宮崎氏也。此筋、千川、文鳥の父、後致仕して改東宇、津、戸田侯の臣
入門す。時に如行、翁を招奉て、
霜寒き旅寢に蚊屋を着せ申 如行
(※「蚊屋」=「虫」+「厨」)
古人かやうの夜の木がらし
といふ挨拶あり。尾州に往て桐葉
林氏
が家に至らるゝに主の心ざし深切なりしかば、
此海に草鞋も捨ん笠しぐれ
師走の海見たまへと、人々にいざなはれ給ひて、
海暮て鴨の聲ほのかに白し
熱田
に詣給ひしに社頭頽破なり。
しのぶさへ枯て餅かふ舎りかな
名護屋
に入。笠は長途の雨にほころび、紙衣は泊々の嵐にもめたり。と前書有て、
木がらしの身は竹齋に似たるかな
此時俳諧五歌仙有、冬の日しうと云。
左山の抱月亭に遊び給ひて、
市人にいでこれうらん雪の笠
十二月八日、一井亭俳諧有。
旅寢よし宿は師走の夕月夜
又勢州に杖を曳て、桑名の本統寺古益亭に遊びて、
冬牡丹千鳥よ雪のほとゝぎす
草の枕に寢倦て、濱の方に立出て、
あけぼのや白魚しろきこと一寸
爰に草鞋をとき、かしこに杖を置て、と詞書ありて、
年暮ぬ笠着て草鞋はきながら
貞享二
乙
丑
行年四十二 山家に年を越し給ひて
誰が聟ぞ齒朶に餅おふうしの年
或人の許にて
旅がらす古巣は梅になりにけり
又南都に出給ふ。
春なれや名もなき山の薄がすみ
奈良七重七堂伽藍八重櫻
二月堂に籠り、
羅索院と號 本尊觀世音
水取や氷の僧の沓のおと音
在原寺
石山村在原山本光寺、俗に在原寺と云、業平朝臣の舊宅の地也。
うぐひすを魂に眠る歟嬌柳
夫より洛に上り、三井秋風が鳴瀧の山家を訪。
梅白しきのふや鶴をぬすまれし
伏見に到。西岸寺
浄土宗三世住寶譽上人 俳名任口
職任口上人にま見え給ひ、
我衣に伏見の桃のしづくせよ
大津に出んと山路を越、
山路來て何やらゆかし菫草
此時堅田の僧
千那
本福寺號蒲萄坊
大津の尚白、青亞、門に入
青亞は早世す
近江に枝を曳て、
大日杖やしを引捨し一かすみ
からさきの松は花よりおぼろにて
水口を過るに、舊友に逢ひ存命を悦び給ひ、
いのちふたつの中に活たるさくらかな
三月盡、又尾州の蓬島に到。桐葉が家を主とし俳諧有。
世に熱田三歌仙と云
笠寺に詣たまひ、
笠寺やもらぬいはやも春の雨笠
笠寺は鳴海と宮の間にあり。寺號轉輪山笠覆寺と云。觀音の靈場、笠を召たる御姿の木像なり。ゆゑに笠寺と名づく。願にも笠を奉る。
四月のはじめ豆州の桑門にあひて、
いざともに穂麦くらはん草枕
貞享三
丙
寅
行年四十三
深川に在。
伊勢が賣家にも來たり千代の春
春雨の雫もいまだ乾ざるに、暮かゝりたる草庵の閑なる折から、妨げる人もなくて、
古池や蛙飛こむ水のおと
隣庵の僧宗波旅に赴れけるを
古巣たゞあはれなるべきとなり哉
春の曉集
初懐紙鶴百韵と云
春の日集
成。夏四月常陸潮来の本間道悦
號自準亭松江、後同州小川に住
の門に入て醫を學び給ふ。
起請文に貞享三年丙寅四月十二日とあり
冬に至て深川に歸り、ふたゝび芭蕉庵を作りて、
あられきくや此身はもとの古柏
素堂兩吟和漢の誹諧は、貞享丙寅と諸書に出せり。しかるに本間氏の門に入りて醫業を學び給ふ事、此年を實事とすなれば、此兩吟は乙丑、或丁卯の年にや侍らん。もし四月五月の頃、醫業を學び給ひ、六月納涼の頃は東武に歸り、和漢の誹諧ありて又秋にいたり潮來に下られ侍るにや詳ならず。又云
素堂
は號なり。表得來雪、俗名山口総兵衛、一説太郎兵衛、博覧の人、又詩作に長ず。總州葛飾に住す。兩吟の立句は
破風口に日影やよわる夕すゞみ 翁
月雪とのさばりけらし年の暮
貞享四 卯
行年四十四
深川在庵。
嵐雪
號雪中庵。又稱玄峯、俗名
服部彦兵衛
が小袖をまゐらせしを、やがて着給ひて、
誰やらが姿に似たり今朝の春
病ることありて庵に籠り給ひ、
花の雲鐘は上野か淺草か
四月の初め、
其角
が母の追善有て、
卯の花も母なき宿ぞすさまじき
岱水
亭に遊びて、
雨をりをりおもふ事なき早苗かな
初秋納涼の夕、
嵐雪
が畫賛を望まれ給ひて、
あさがほは下手の書さへあはれなり
八月鹿島に下り給ふ。
鹿島紀行
曾良
俗名河合惣五郎、
宗波
を伴ひ給ひて門より舟にのり、行徳にわたり舟をあがり、八はたを經てかまかいが原を過、利根川の邊り布左と云所に着給ひ、魚家にやどり、夜舟さし下して鹿島山の麓、根本寺佛頂和尚の許に至らる。人をして深省を發せしむと云、杜少陵の句をかりて、
寺に寝てまこと顔なる月見かな
月はやし梢は雨を持ながら
神前に詣給ひて、
此松の実ばへせし代や神の秋
田家を逍遥し、
刈かけし田面の鶴や里のあき
賤の子や稲すりかけて月を見る
潮來の自準亭に到。又郊原をたどりて、
萩原や一夜はやどせ山のいぬ
八月下旬江戸に歸り、又十月古郷に赴る。
卯辰紀行、又
芳野紀行
と云。
旅人と我名よばれむ初時雨
露沾公
號遊園堂、岩城内藤侯なり
又
其角亭
にて餞別の會あり。東海道を歴給ひ箱根を越て、
一尾根はしぐるゝ雲か不二の雪
鳴海に到。
星崎の闇を見よとや鳴千鳥
本陣寺島ボク言亭に遊び、飛鳥井雅章卿の和歌に和して、
京まではまだ半空や雪の雲
鍛冶出雲守氏雲宅にて、
おもしろし雪にやならん冬の雨
寂照庵
知足
亭
酒造家、俗に千代倉と云
に俳諧ありて、三河國保美村に
杜國
が在けるを訪はんと、鳴海より二十五里斗り歸り、池下の茶店に休らひて、
松葉を焚て手拭あふる寒さ哉
越人
或人云越智氏 肥後侯の浪士
と吉田の驛にやどり給ひ、
寒けれど二人旅寝ぞたのもしき
あまつ繩手を過、
すくみゆくや馬上に氷る影ぼうし
保美村に杜國に逢給ひ、
麦はえてよき隱れ家やはたけむら
さればこそ荒たきまゝの霜の庵
又尾州に往給ふ。杜國同伴にて伊良古崎に
杜國草庵あり
到。
鷹ひとつ見付てうれしいら古崎
熱田
に詣で、御修覆の成就したるを拜したまひ、
磨
(とぎ)
直す鏡もきよ清し雪の花
多度の権現を過て、とはし書ありて、
宮人よ我名をちらせ落葉川
名護屋の人々に、迎へられたまひて休息せらる。
いざさらば雪見に轉ぶ處まで
桑名を過、日永里に馬をかり、杖突坂ひきのぼすほどに鞍打かへりて馬より落給ふ。
かちならば杖突坂を落馬かな
古郷に歸て
旧里や臍の緒に泣くとしのくれ
古郷の誹諧世に五庵と稱するものは所謂、再形庵、初名無名庵、
蓑蟲庵
、瓢竹庵、東麓庵、西麓庵なり。
貞享五
戊
辰
行年四十五
宵の年空の名殘をしまんと舊友來りて
酒に興じ元日寝忘れたれば、とはし書有て
二日にもぬかりはせじな花の春
風麥亭に遊。
はる立てまだ九日の野山かな
山里は萬歳おそし梅の花
卓袋
亭の月待に招かれ給ひ、
月まちや梅かたげ行く小山伏
門人猿雖
俗名意專
に對し給ひて
もろもろのこゝろ柳にまかすべし
或人曰此所の句所見なしと。
宗七、宗無を伴ひ、阿波庄護峰山新大佛寺
俊乘上人開基の寺なり
に詣給ひ、懐舊の情を述て、
丈六に陽炎高し石のうへ
伊勢に往。山田に詣て宮司に梅を尋給ひしかば、子良館の内に一もと侍るよしを聞給ひて、
御子良子の一本ゆかし梅の花
二月十日あまり神路山を出る程に、西行の涙をしたひ增賀の信を悲しむ。とはし書ありて、
何の木の花とはしらず匂哉
裸にはまだ衣更着の嵐哉
十五日、外宮の館といふ處にありて、
神垣やおもひもかけず涅槃像
菩提山神照寺。
山寺の悲しさつげよ野老
(トコロ)
ほり
網代民部弘氏の男胡來
一本作雪堂
が許にいたりて、
梅の木に猶やどり木やうめの花
二葉軒を訪給ひ、
藪椿門は葎のわか葉かな
龍尚舎
神職也。龍太夫と稱す。博学の人尚舎表得也。
に逢て
物の名を先とふ荻の若葉かな
又伊賀に歸り給ふ。上野藥師寺の初會
初櫻折しもけふはよき日なり
藤堂探丸
新七郎良長と稱す、主斗良忠の男
成長後、芭蕉翁の宗房たりし時の忠節を思ひ、別墅の花見と稱して招き初對面ありしが、只いひ出せる詞もなく互に落涙數刻の後、
さまざまのこと思ひ出す櫻哉
春の日はやく筆に暮ゆく 探丸
さまざま櫻と稱して今猶存すといへり。
芳野に杖を曳。同伴
杜國
自稱萬菊丸
乾坤無住同行二人、と笠の裏に書給ひ、
芳野にてさくら見せふぞ檜笠
大和の國今井、櫻井など過て丹波市に到。
草臥て宿かるころや藤の花
草尾村、
花のかげ謡に似たる旅寢かな
初瀬の觀音の靈場、
春の夜や籠人ゆかし堂の隅
葛城の麓を過て、
猶見たし花にあけゆく神の顔
三輪、多武峯、臍峠、
雲雀よりうへに休らふ峠かな
龍門の瀧、
酒飲にかたらんかゝる瀧の花
龍門の花や上戸の土産
(つと)
にせん
西河の瀧、
ほろほろと山吹ちるか瀧の音
蜻蛉が瀧、布留の瀧一見し給ひ、芳野の花に三日逗留有て吟詠なし無下の事なり。と歎息あり。西上人の舊跡苔清水、
春雨の木下につたふ清水かな
凍解て筆に汲ほす清水かな
夫よりあゆみをかへて、紀州高野に到り給ふ。
凍解て筆に汲ほす清水かな
行春に和歌の浦にて追付たり
紀三井より跡に歸り、
ひとつ脱でうしろにおひぬ衣がへ
南都に到り給ひて、
潅佛の日に生れあふ鹿子かな
招提寺に詣。鑑眞和尚、
沙石集に唐の龍興寺の鑑眞和尚、聖武天皇の御宇吾朝へ來て、南都の東大寺、鎮西の觀世音寺、下野の藥師寺、三戒の壇を立給ふ云々。又一本に海上七十餘度の難風を凌、目盲させ給ひしと云。
の像を拜し給ひ、
若葉して御目のしづく拭はゞや
あかしの夜泊、
蛸壷やはかなき夢を夏の月
鐡拐が峯に登て、
須磨の海士の矢先に啼や郭公
ほとゝぎす消行方や嶋一つ
源平の其代を觀じ、まのあたり幻に袂をしぼり給ひ、又跡に歸、山城に到。山崎の宗鑑
俗名支那彌三郎範重
の舊跡を訪。
有がたき姿おがまんかきつばた
大津に越て、木曾路に赴んとし給ひ、
此のほたる田毎の月にくらべ見ん
祖翁の日記
自筆にて三行ばかり
六月六日大津を立、ゑち川に泊、七日
赤坂
に一宿、八日岐阜に到る。
秋芳軒宜白
を主とすと云々。稲葉山の松の下涼みに、長途の旅愁を慰め給ひ、
山かげや身を養ん瓜ばたけ
人々にいざなはれて、岐阜の鵜飼を見給ひ、
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな
又たぐひながらの川の年魚鯰
稲葉山にのぼり、
城あとや古井の清水先問ん
此折から落梧が少年をうしなへるを悼み給ひ、
もろき人にたとへん花も夏野哉
長等川に臨たる賀島氏が水樓に遊び、記を書て十八樓と名付。
此あたり目にみゆるものはみな涼し
桑門巳百が許に到り給ふに、此僧こゝろざし他にこえて、やさしかりければ、
やどりせん藜の杖になる日まで
杉野竹葉軒長虹が庵を訪て、
粟稗にまづしくもなし草の庵
大曾根成就院、
何事の見立にも似ず三日の月
鳴海に往給ひて、
初秋や海も青田の一みどり
知足が弟金右衛門が新宅を賀し、
よき家やすゞめよろこぶ背戸の粟
此所の一日遊び給ひて、探題青瓢を得。
夕顔や秋はいろいろの瓢かな
名護屋に入、野水が旅行を送て、
見おくりのうしろやさびし秋の風
或曰、此句古集に所見なしと云。
八月更科の月見むと旅立給ふ同行越人。
更科紀行
送られつおくりつはては木曾の秋
人々廓外に送り、三盃をかたぶけて、
朝がほは酒もりしらぬさかりかな
荷兮
號橿木堂
が僕を添へて行路を助く。棧に到給ひ、
かけはしやいのちをからむ蔦かつら
寢覺を過、猿が馬場、たち峠など四十八まがりを越て、姨捨山の月に袂をぬらし、
俤や姨ひとり泣月の友
善光寺、
月影や四門四宗も只ひとつ
吹飛す石は淺間の野分かな
越人を伴ひて江戸に歸給ふ。
越人と兩吟の俳諧あり、
あら野集
に入。
翁自書に曰、秋の月は更級の里姨捨山になぐさめかねて、猶あはれさの目にもはなれずながら十三夜になりぬ、
木曾の痩もまだ直らぬに後の月
素堂
亭、菊園の會にまねかれ給ひて、
いざよひのいづれか朝にのこる菊
深川の草庵に閑居して、
枯枝に烏のとまりけり秋の暮
或人云、此句延寶九年六月印行言水撰、東日記と云集に出たりとなり。
猿蓑集
に此冬、信濃路を過るとはし書有て、
雪ちるや穂屋のすゝきの苅のこし
と云句をなし給ふ。然れども翌年、奥のほそ道に去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひといふ詞あれば、疑なく八九月の頃、深川に歸庵せられしなるべし。信濃を過のはし書は儲て書たまひしものか。
元禄元
戊
辰
九月改元
深川在庵
行年四十五
冬籠り又より添ん此はしら
朝よさを誰松島ぞ片ごゝろ
去年の侘寝を思ひ出て、
越人
に消息し給ふ。
杜國
を訪ふ時越人供せられたればなり。
二人見し雪は今年も降けるか
盗人にあふた夜もあり年の暮
元禄二
己
巳
行年四十六
深川にて春をむかへ給ふ。
叡慮にてにぎはふ民や庭竈
此春
曠野集
成。奥羽の旅に赴んとし給ひ、住る方は人に譲り先杉風が別埜に移り、
草の戸も住替る代ぞ雛の家
同行
曾良
此時薙髪して號宗悟、俗名上にあり 三月二十七日の曉、舟にて千住に到、見送りの人々に別て、
行春や鳥啼魚の目は涙
其日草加に一宿。野州室の八島に詣給ひて、
糸遊に結びつきたるけぶりかな
三十日日光山の麓、鉢石町の佛五左衛門といへるものゝ家にやどりたまひ、卯月朔日、御山に給ふ。
あらたふと青葉若葉の日の光り
裏見の瀧、
しばらくは瀧に籠るや夏
(げ)
のはじめ
夫より野越にて、
秣おふ人をしをりの夏野かな
黒羽
に到。館代
浄法寺圖書
號翠桃、其弟桃翠、俗名鹿子畑善太夫
を主として誹諧あり。一日郊外に出て犬追物の跡を一見し、又那須の篠原を分て
玉藻の前の古墳
をとひ、八幡宮に詣づ。相殿に温泉明神あり。
湯をむすぶ誓もおなじ石清水
修驗光明寺に招れ給ひ行者堂を拜して
夏山に足駄を拜む首途かな
雲岸寺の奥に
佛頂和尚
の山居の跡を訪。
木啄も庵は破らず夏木立
高久の宿青楓
俗名角左衛門
が家に假寝し給ひて、
落來るや高久の宿のほとゝぎす
殺生石、
石の香や夏草赤く露暑し
芦野の里遊行柳、
田一枚うゑて立さる柳かな
白河の關を越、阿武隈川をわたり、かげ沼を尋ね岩瀬郡那須川の驛、
等躬
號乍單斎、俗名伊左衛門
が許に到りて、
風流のはじめやおくの田植うた
四五日止り、桑門可伸が軒の栗の詞を書給ひ、
世の人の見付ぬ花や軒の栗
等躬が許を出て檜皮宿をはなれ、
安積山
、二本松、
黒塚の岩屋
を一見して福島に舎る。しのぶもじずりの石を尋、
早苗とる手元やむかししのぶ摺
月の輪の渡
をこえ、瀬上より飯塚の里、鯖野の
佐藤庄司が舊蹟
を尋、
精舎
醫王寺
に入て、義經の太刀、辨慶が笈を見給ひ、
笈も太刀も皐月にかざれ紙幟
其夜
飯塚
にやどり、桑折驛より
伊達の大木戸
を越し、鐙摺、白石城 を過、簔輪、笠島を遠望し給ひて、
笠嶋はいづこさ月のぬかり道
岩沼に泊、武隈の松、
桜より松は二木を三月越し
名取川をわたりて仙臺に入、四五日逗留し給ふ。畫工加右衛門此わたりの圖と草鞋を贈る。
あやめ草足にむすばん草鞋の緒
玉田、横野、
つゝじが岡
、藥師堂、天神の御社 、などを拜し、
おくの細道
の山際をたどり、十符の菅 を見給ひて、市川村の
多賀城
に壺の碑を一見し、野田の玉川、
沖の石
、
末の松山
を過て、
鹽竈
に舎りを求め、社頭の壯觀に目を驚し、泉三郎
名忠衡、秀衡三男
が忠勇を感じ、
松島
に渡り、五月十一日
瑞岩寺
に詣で、十二日平泉とこゝろざし、あねはの松、
緒たえの橋
より道ふみたがへて、
石の巻
に出。金華山を海中に詠めやりて、袖の渡、尾ぶちの牧、まのゝ萱原など餘所に見なし、
豐間
に舎り、平泉
秀衡、康衡の舊跡
に到る。
高館
義經の舊跡
夏草やつはものどもが夢の跡
二堂を拜し、
五月雨の降殘してや光り堂
南部街道を遙に見やり、
岩手の里
に泊、
小黒崎
、
三つの小島
を過、なるこの湯より
尿前の關
にかゝりて舎り給ひ、
蚤しらみ馬の尿するまくら元
出羽國に越給ふ。まことに人跡まれにして嶮巉の地なり。最上の庄に至て尾花澤の清風
鈴木氏
が家を主とし給ひ、
涼しさを我宿にして寝まるなり
眉掃を俤にして紅のはな
山形領の立石寺
號寶珠山、在最上中野、本尊藥師、慈覚大師開基
を拜んと七里斗り跡に歸りて、かの精舎に到。
しづかさや岩にしみ入蝉の聲
新庄の山形村、
風流亭
俳諧あり
最上川をのらんと大石田の一榮
俗名高野平左衛門
が宅に日和を待て
俳諧あり
さみだれをあつめてはやし最上川
此度の風流、此所にとゞまると書たもふ。
こてん、はやぶさ、板敷山、
しら糸の瀧
、仙人堂などの難所を過て、六月初、
羽黒山
に登り、南谷の別院に舎。別當會覺、念頃にあるじせらる。
有がたや雪をかをらす南谷
凉しさやほの三日月の羽黒山
八日、
月山
に詣で、
雲の峯いくつ崩れて月の山
湯殿山に詣給ひ、
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
遂に三山を經て鶴が岡の城下、重行
長山氏
が家に舎りたまひて、
珍らしや山を出羽のはつ茄子
又もかみ川をのり酒田に下り、令道
俗名寺島彦介
が許に到給ふ。六月十五日也。
暑き日を海へ入たり最上川
不玉
號淵庵、俗名伊東元順
が亭に舎。袖の浦の眺望、
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
山をこし磯を傳ひ、象潟に舟をうかべて、
象潟や雨に西施がねぶのはな
夕ばれやさくらに涼む浪の花
夫より北陸道に杖を曳、加賀の府まで百三十里、
鼠の關
を越れば越後の地なり。越中の境ひ市振の關に到。
此間九日、路暑濕にくるしみて事を記さずと云々。
出雲崎
に舎。
あら海や佐渡に横たふ銀河
直江津のある寺に舎り給ひ、
文月や六日も常の夜には似ず
高田に到。醫師細川春庵が亭に遊びたまひ、
藥欄にいづれのはなを草枕
新潟、
海に降雨や戀しき浮身宿
或人云、此句出所不知となり。
親しらず、子しらず、犬戻り、駒がへしなど云る北國一の難所を經て舎りを求め給ふ。
ひとつ家に遊女も寢たり萩と月
又四十八ヶ瀬といふおほくの川を渡り、那古の浦より擔籠の藤浪を餘所に見て、加賀の國に入。
早稲の香やわけ入右は有磯海
卯の花山、
倶利伽羅が谷
、
くりからや三たび起ても落し水
或人云、此句出所不知と云。
金澤に到。先一笑
小松氏 稱茶や新七
が墓に詣、
塚もうごけ我泣聲は秋の風
小春亭に遊び給ふ。其饗應山海の珍味をつらね善美を盡したる設也。其次の夜の會は淺野川下なる一草庵にありしが、饗應を大にいましめ給ひて只煎茶のみなり。
しら露のさびしき味をわするゝな
一本に大垣の如行亭とするは誤なり。
卯辰山の柳陰軒句空亭に遊び、
散柳あるじも我も鐘をきく
少幻庵に遊、俳諧あり。
其時の句殘暑しばし手毎に料れとあり。
秋すゞし手毎にむけや瓜茄子
小松に到。
しほらしき名や小松吹萩すゝき
觀水亭に遊、
ぬれてゆくや人もをかしや雨の萩
太田の神社に詣、齋藤別當實盛着用が甲冑を見給ふ。
あなむざんやな冑の下のきりぎりす
此句、後にあなの二字省れしと。
山中の温泉に往て、
山中や菊は手をらぬ温泉の匂ひ
しら根か嶽を跡に見なし、那谷の觀音を拜して、
石山の石よりしろし秋の風
此頃、曾良は病ひにより先立て勢州にゆく。
けふよりや書付消ん笠の露
大聖寺の城下、全昌寺に一宿し給ひて、
庭掃て出るや寺にちる柳
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋、丸岡の
大龍寺
に到。
門に入ば蘇鐡に蘭のにほひかな
北枝
加賀金澤の産、俗姓立花三郎右衛門、此外入門あり。
此所迄送り奉る。松岡の茶店にて別に臨て、
もの書て扇引さく別れかな
笑ふうて霧にきほひ出ばや 北枝
五十町山に入て
永平寺
を禮し、福井に到、等哉を尋給ひ、
名月の見所問ん旅寢せん
或人云、此句出所不知となり。
倶に敦賀に赴く。比那が崎、あさむつの橋
俗にあさうつといふ。
玉江を尋、
あさむつや月見の旅の明はなれ
月見せよ玉江の芦を刈ぬ先
鶯の關、湯の尾峠より燧が城を過給ふ。
月に名をつゝみかねてやいもの神
義仲の寢覺の山か月悲し
氣比の明神に夜參りして、
月清し遊行のもてる砂のうへ
歸る山を過て敦賀の湊に名月を見たまひ、
名月や北國日和定めなき
種の濱、いろの濱に遊びて、
小萩ちれますほの小貝小盃
さびしさや須磨に勝たる濱の秋
夫より美濃國に越給ふ。
曾良
、越人、半途まで出むかへて、九月三日大柿に到。
如行
が家を主とし給ふ。門弟子路通、前川、荊口父子、斜嶺など寄つどひて懇に旅愁をいたはる。如行が別墅、
籠り居て木實草の實拾はゞや
木因亭、
隠れ家や月と菊とに田三反
斜嶺亭に遊び、
其まゝに月もたのまじ伊吹山
伊勢の遷宮をがまんと旅立給ふ。
秋の暮行先々ハ篷屋かな
木因
萩に寝ようか荻に寝ようか
同六日、木曾川を小舟にて下る。
蛤のふたみにわかれゆくあきぞ
内宮は事をさまり、外宮の遷宮にはせつき給ひ、
たふとさにみなおしあひぬ御遷宮
立冬の比、伊賀の長尾峠を越て奈良に赴給ふ。
初時雨猿も小蓑をほしげなり
夫より洛に登り給ふ途中、
いかめしき音やあられの檜笠
去来
俗名向井平次郎
が
落柿舎
に遊び給ひしに、鉢叩と云物をいまだ見給はずとて、夜もすがら待給ひしに曉にちかく來しかば、
長嘯が墳もめぐるか鉢たゝき
臘月に至、膳所に赴給ふ。
何に此師走の市にゆく烏
元禄三
庚
午
行年四十七
都近き所に春を迎ふ。と詞書ありて、
誰人か菰着ています花の春
又伊勢にこして、二見の圖を拜し給ひて、
うたがふな潮の花も浦の春
路草亭に遊び、
帋衣のぬるとも折ん雨の花
園女
醫師岡西帷中、俳名一有妻、後大阪に住、江戸に住。
亭に遊、
暖簾のおくものゆかし北の梅
伊賀に歸り花垣の庄をとひ、
一里はみな花守の子孫かや
木白亭
畠打おとやあらしの櫻麻
藤堂橋木亭に遊、
土手の松花や木深き殿造り
又近江に立越、大津の珍碩
濱田氏
が洒落堂に遊て、其記を書給ひて、
四方より花吹入て鳰の海
木の本に汁も鱠もさくらかな
瓢集成。湖水に臨みて惜春。とはし書ありて、
行春をあふみの人とをしみける
夏四月初て石山の奥、國分山の幻住庵を繕ひて入給ふ頃、其記を作りて、
先たのむ椎の木もあり夏木立
一書
に、元禄三の夏は國分山に籠り、山を下りて里の童に谷川の石を拾せて、一石に一字づゝの法華經を寫し給ひしと云々。
加州秋之坊
寂玄と稱
を幻住庵にとゞめ、二夜假寢し給ひし時、
我宿は蚊のちひさきを馳走かな
麓まで見送り給ひて、
やがて死ぬけしきは見えず蝉の聲
旅癖や寢冷えわづらふ秋のやま
といふ句を殘し給ひ其庵を出給ふ。
此年夏秋の間、京の
去来
、
凡兆
、史邦、野水等幻住庵に來て俳諧あり、是則
猿蓑集
なり。翌年の夏、
嵯峨日記
に云、去年の夏凡兆
加賀の産 京に住
が家に遊、ひとつ蚊帳
(※「虫」+「厨」)
に四ヶ國の人寢たりし事あり。と書れし事あれば、上京の事も有しにや。諸書考る所なし。
其秋、
木曾墳
の草庵
號無名庵、又秋草庵と云
に籠り推戸の人々に對し、
草の戸をしれや穂蓼に唐がらし
待宵は楚江亭、良夜は木曾墳につどふ。
米くるゝ友をこよひの月の客
三井寺の門たゝかばやけふの月
十六夜は名月の殘興にて湖水に舟をうかべ、堅田、又打出の濱に遊、
十六夜や海老煮程の宵の闇
鎖明て月さし入よ浮御堂
又其頃、堅田を逍遥し給ひて、
病雁の夜寒に落て旅寢かな
海士が家は小海老に交るいとゞ哉
醫師木既が兄の許にいざなはれ給ひしに、饗應八珍を盡すとなん。
蝶も來て酢吸菊の鱠かな
大津の丹野
俗名本間主馬、能太夫なり。
が亭に遊び給ひしに、骸骨どもの笛鼓をかまへて、能する所を畫て舞臺の壁にかけたり。まことに生前のたはぶれ、などか此遊にことならんや。かの髑髏を枕として、終に夢うつゝをわかたざるも、只此生前をしめさるゝものなり。とはし書ありて、
いなづまやかほの處がすゝきの穂
朧月の末、洛を出て大津の乙州が家に到り、
人に家をかわせて我は年わすれ
元禄四
辛
未
行年四十八
湖頭の
無名庵
にて春を迎ふ。三日閉口四日
題す。とはし書有て、
大津繪の筆のはじめは何佛
乙州が武江に下るを餞して、
梅若菜まりこの宿のとろゝ汁
此頃
支考
號獅子眠、又蓮二坊、東花房、四花房、尾州犬山の産なり。
が東行の餞し給ひ、
此こゝろ推せよ花に五器一具
京にても京なつかしやほとゝぎす
卯月十八日、去來が
落柿舎
に到、暫く止らる。
其間の事を記し給ふを嵯峨日記といふ。
小督が屋敷を尋て、
うきふしや竹の子となる人の果
落柿舎頽破。とはし書有て、
さみだれや色紙へぎたる壁の跡
柚の花にむかしを忍ぶ料理の間
五月四日其處を出給ふ。四條の川原納涼にまかり、
川風や薄柿着たる夕すゞみ
大津に到。丹野が亭に遊、其家名を稱し給ひ、
ひらひらとあぐる扇や雲の峯
蓮の香を目に通はすや面の鼻
冬、東武に赴んとし給ひ、先平田
一名月の澤
の李由が許に、
たふとがる涙や染て散るもみぢ
百年のけしきを庭の落葉かな
濃州に越て垂井の宿、規外が許に舎り、
作り木の庭をいさむるしぐれかな
又耕雪が別埜に遊給ふ。
木がらしに匂ひや付し歸り花
大垣に越、千川亭に到。
折々に伊吹をみては冬籠り
斜嶺亭
俳諧あり
尾州に往て、熱田の梅人亭に遊。
水仙やしろき障子のとも移り
此時、名古屋の露川入門
號月空庵
三河に越て、新城の白雪が許に到。二人の子桃先、桃後の名を與へ給ふ。
其にほひ桃より白し水仙花
此時
支考、桃隣同伴たり
同所の家士菅沼權衛門が宅、
京に倦て此木がらしや冬住ひ
鳳來寺に參籠し給ひ、
夜着ひとつ祈出して旅寝かな
木がらしに岩吹とがる杉間かな
島田の驛、
如舟
塚本氏
が家に到。
宿かして名をなのらする時雨かな
霜月のはじめ武府に到給ふ。
都出て神も旅寢の日数かな
三秋を經て
深川
に歸られければ、舊友、門人群來ていかにいかにと問侍るに、
兎もかくもならでや雪の枯尾花
此冬、橘町に居給ふ。
翌年の秋、深川の庵を再興して入給ふ。栖をかへるのことばあり。
仙化が父の追善有て、
袖の色よごれて寒し濃鼠
魚鳥のこゝろはしらずとしの暮
元禄五
壬
申
行年四十九
橘町にて越年し給ふ。
年々や猿にきせたる猿の面
其角
、
嵐雪
の二人に對し、
兩の手に桃と櫻や草の餅
孤石がみちのく行を送る、
むく起に隣の花のにほひかな
時鳥啼や五尺のあやめ草
此頃
許六
號五老井、又稱菊阿佛、俗名森川五助、彦根侯之臣
門入す。深川の庵再々興ありて入給ふ。柱は杉風、枳風が情を削り、住居は曾良、岱水が物數寄をわび、なほ名月のよそほひにとて芭蕉五もとを栽たり。
はせを葉を柱にかけん庵の月
芭蕉を移す詞有。
九月浪華の
洒堂
、深川に來り俳諧あり。
是を深川集といふ
支梁亭の口切に招れて、
口切に堺の庭ぞなつかしき
許六亭に遊び、
けふばかり人も年よれ初時雨
素堂
亭、年忘れの會。
節季候を雀の笑ふ出立かな
元禄六
癸
酉
行年五十
元日は田毎の日こそ戀しけれ
僧專吟が旅に出る送別の辭有て、
鶴の毛の黒き衣やはなの雲
露沾公に召れて、
西行の庵もあらん花の庭
夏、
許六
に別るゝ時
柴門辭、又送別辭有。
椎の花の心にも似よ木曾の旅
又、露川へ申入らる。
五月雨に鳰の浮巣を見に行ん
秋、閉關の説を作り給ひ、
朝がほや晝は鎖おろす門の垣
七月七日の夜、雨星を祭りて、
高水に星も旅寢や岩の上
深川の末、五本松に舟をさして、
川上と此川下や月の友
東順
其角の父、表得赤子
が傳を書給ひて、
入月の跡は机の四隅かな
岱水亭に遊、
影待つや菊の香のする豆腐串
八町堀にて、
菊の花さくや石屋が石の間
大門通りを過る頃、
琴箱や古物店の背戸の菊
小名木澤の桐奚に招かれ給ひて、
秋に添て行ばや末は小松川
元禄七
甲
戌
行年五十一
深川
在庵
蓬莱に聞ばや伊勢の初便り
上野の花見にいざなはれ給ひて、
四つ五器の揃はぬ花見こゝろ哉
木隠れて茶摘も聞や不如歸
子珊亭に招れ給ひ、
紫陽花や藪を小庭の別坐敷
桃隣
が新宅を賀し、自畫賛を送り給ふ。
寒からぬ露や牡丹の花の蜜
炭俵
集、
別座敷
集成。閏五月十一日洛に赴る。四たび結びし深川の庵
延寶三、貞享三同五、元禄五
を出る。とはし書有て、
黄鳥や竹の子藪に老をなく
此時、京橋の乙州が家に立より誘ひ給ひしが、乙州故ありて同伴せず。名殘惜げに見ゆる。別れて東海道を經給ふ。川崎に到て、送別の人々に對し、
麦の穂をちからにつかむ別れかな
晦日、箱根の關を越て、
目にかゝる時や殊さら五月不二
するが路や蘆橘も茶のにほひ
大井川水出て島田の驛、如舟が家に逗留し給ふ。
苣
(ちさ)
はまだ青葉ながらに茄子汁
さみだれの雲ふき落せ大井川
夏の月御油より出て赤坂や
尾州に到、名護屋の荷兮が草扉を敲き、三日逗留し舊交の人々に對し給ひ、
世を旅に代かく小田の行戻り
野水が閑居しけるを訪。
涼しさは指圖に見ゆる住ひかな
美濃に越て、先、平田の李由が方へ文を贈り給ひて、
晝顔にひる寢せうもの床の山
大垣に到。岡田氏千川が日光御代参に供奉するを送り給ふ。
篠の露はかまにかけし茂りかな
藏田氏に遊て、
柴つけし馬の戻りや田植酒
又、名古屋に取てかへし給ふ。露川が輩、佐谷まで送りして、倶に隱士山田氏素覧が亭に假寓し給ひ、
水鶏なくと人のいへばや佐谷泊
小倉山常寂寺に詣。
松杉をほめてや風のかをる音
六月や峰に雲おく嵐山
清瀧や浪にちり込青松葉
など逍遥し給ひ、門人之道
後更諷竹、浪華の人
に對して、
我に似な二つに割し眞桑瓜
此頃、伊賀の兄
松尾半左衛門
の許より消息ありて、舊里に歸り盆會をいとなみたまふ。
菩提所は愛染院と云。
家はみな杖に白髪の墓参り
藤堂玄虎子の庭つくりを見給ひ、
風色やしどろに植し庭の萩
七月二十八日、
蓑虫庵
猿雖亭
に遊び俳諧有。良夜は山家に遊。
名月に麓のきりや田の曇り
名月のはなかと見えて綿畑
十六夜は蓑虫庵に歸り給ひ、
今宵誰よしのゝ月も十六里
片野の望翠亭。
里ふりて柿の木もたぬ家もなし
此頃、
支考
伊勢の斗従を伴ひ、山家を訪れけるに、
蕎麥はまだ花でもてなす山路哉
夫より支考、惟然をいざなひ、大和に赴きたまふ。九月八日、笠置より木津川を乘、錢司を過て舟を上り奈良に到。
菊の香や奈良には古き佛達
菊の香や奈良は幾代の男ぶり
猿澤の邊に舎を求めたまひ、
ひいとなく尻聲悲し夜の鹿
闇上峠、
菊の香にくらがりのぼる節句哉
其所より大坂迄駕籠に乘給ふ。難波の少しこなたより駕籠を下て、雨の菰に身をなして、斯る都の地にては、乞食行脚の身を忘れては成がたくと宣ひ、吟歩しづかに生玉邊より日暮て、
菊に出て奈良と難波は宵月夜
浪華に入給ひしが、人々のもてはやしにて靜なる席もなく天王寺、住吉の濱など心にまかせて遊給ひ、
此秋は何でとしよる雲に鳥
園女亭、
しら菊の目に立て見る塵もなし
二十六日、清水の茶店 うかむ瀬と云 四郎衛門が家に遊ぶ。主わりなく短冊を願。
松風や軒をめくりて秋くれぬ
此道やゆく人なしに秋の暮
一説に、此句は泥足が
其便集
によりてなし給ふと云。
二十八日、又畔止亭に遊び給ひて、
秋深き隣は何をする人ぞ
芝柏が招きに應じ、此發句を殘し申されて、明日は必ゆかんと約したまひしが、園女亭の饗應の菌の塊積に障ると覺られて、二十九日より泄痢のいたはり有て、
御堂前
花屋仁左衛門が家に臥給ふ。
此時看病の人支考、惟然、洒堂、之道、舎羅、苔蘇、呑舟、次郎兵衛尼壽貞の子等なり
十月二日、三日の頃より病漸々につのりける。こゝにおいて五日には、所々の門人親友へ消息あり。
此頃に至て近里遠境の門人三千餘人に及ふと云、
少し快と申さる。七日に京より去來、江州龍ヶ岡の丈艸
號佛幻庵、俗名内藤氏
大津より木節、乙州、膳所の正秀等各來る。八日の夜、深更に及で介抱に侍ける呑舟を召れ、
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
と云句を書しめ給ふ。其後、
去來
、
支考
を召て此吟の可否を問給ふ。九日病革なりければ、故郷への文、遺物等の沙汰あり。十一日の夕
其角
來る。
其角 この時、岩翁、龜翁などいふ人を伴ひ、泉州境一見して歸さ、蕉翁の大阪旅宿に悩給ふと聞て、急ぎ馳參りしと也。
其夜も明るほどに、木節を諭し申されけるは、吾、生死も朝暮に迫りぬと覺ゆる也。素より水宿雪棲の身の此の藥、かの藥とて淺ましうあがき果べきにもあらず。只願くは老子の藥にて、最期までの唇 潤し候半と、深く頼置て、其後は左右の人を退けて不浄をながし、香を焚
(※「焚」=「火」+「主」)
て後、安臥してものいひ給はず。十二日の申の刻斗り、眠るごとく遷化し給ひけり。門人おのおの涙にくれながら、其夜亡骸を長櫃に入、川舟に乘、十餘人從て伏見に着岸す。
此夜江州平田の李由下りしが、
其角
に行あひ乘移りて櫃に從ふ。其餘膳所の臥高、昌房、探志は行違ひ浪華に下る。伊賀より猿雖、
土芳
、卓袋など下りしが、皆亡骸にもあひまゐらせず。直引返して十四日の埋葬にはあひ奉りしとなり。
十三日湖南に到、木曾塚の無名庵に入奉りて、十四日をもて埋葬と定む。招ざるに馳集る門葉舊友三百餘輩也。葬儀をいとなみて、粟津の
義仲寺
に収畢。
石碑芭蕉翁の三字
僧
丈艸
の筆也
「旅のあれこれ」
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